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「丸​​​​​​​亀​​​​​​​​​​製​​​​​​​​​麺​​​​は、全ての店で水力発電で利用された水から作る。そうしなければ本当のうどんのおいしさを伝えられないから ~うどんであなたを驚かせたい~」について考える

 久しぶりに音MADについて書く。先日、数年ぶりに丸亀製麺に行ってきて思い出したので、Theasの音MAD「丸​​​​​​​亀​​​​​​​​​​製​​​​​​​​​麺​​​​は、全ての店で水力発電で利用された水から作る。そうしなければ本当のうどんのおいしさを伝えられないから ~うどんであなたを驚かせたい~」について書きたいと思う(めんどいので、以下「丸亀製麺は」と略す)。
 一応知らない人のために説明しておくと、「丸亀製麺は」はTheasによって2023年9月13日にニコニコ動画上に投稿された音MADだ。タイトル通り、丸亀製麺のCMを素材にした作品である。すごいのはその歌詞だ、CMの声優を担当している森本レオの声で「丸亀製麺は全ての店でハイになる違法な粉から作る」「丸亀製麺は口からビームを放つことができる」などととんでもない宣伝文句を言わせる(おそらくは森本レオの他の素材を引っ張ってきたと思われる)、名誉棄損になりかねない内容になっているのだ。‥‥‥というか、実際にそれが問われたのかどうかは分からないが、本人によるYoutube版は一回公式によって削除され、映像を加工したverが再投稿されるに至っている。
 2024年3月現在、ニコニコ動画では16万回再生されており、Theasの作品の中でも再生数ではかなり上位に食い込む作品となっている。もちろん、僕もいいねを押した5000人以上の人間に与する立場で、こんなMADは自分には百年経っても作れないな、と思う。その上で考えてみたいのが、この「丸亀製麺は」が体現している、音MADにおける「原曲」と「素材」の関わりについての問題だ。
 多くの人が思っていることだろうが、「丸亀製麺は」には恐ろしいほど原曲の存在感がない。もちろん、「ハイドロシティゾーン」という原曲は立派に存在しているのだが、そこに視聴者の注目が行かないよう周到に、丁寧に動画が作られている。まずタイトルとサムネからして、原曲を想像できないものになっている。と言ってもこれはハイドロシティゾーンMADの多くに言えることなのだけれど、さらに「丸亀製麺は」に関しては、あまりに歌詞のインパクトが強すぎるので、十中八九視聴者の目はそのイカれ具合に行く仕組みになっている。
 このことはつまり、「丸亀製麺は」における「原曲」が、言ってみれば粉薬を飲みやすくするための水のような働きに特化していることを意味している。ここでは原曲(ハイドロシティゾーン)は出来る限り素材(丸亀製麺)を陰から支え、存在感を消さねばならない。もちろん、水がなければ粉薬は喉に拒否反応を起こされてしまうように、原曲がなければいくら素材が優秀でも聞くに堪えないものになるだろう(丁寧にリズム合わせがなされていることは作品と素材を聞き比べてみれば分かる)。要するに「丸亀製麺は」は原曲の影響を必要最低限のもの(素材を聴きやすくする)に抑えた作品なのだ。
 これを最近の音MADの傾向の中で考えてみるとき、少し示唆的なものが顔を出しているように僕には思える。前に一回noteで書いたことがあるが、定番素材が固定化した現代の音MADシーンは、主に「素材」ではなく「原曲」の側を拡張していくことで維持されている。もちろん新しい素材が出ないわけではないけれど、より大きなムーブメントを引き起こしているのはやはり「原曲」の出現だろう(2022年を代表するミームであるおとわっか、データなんかねえよ、帝京平成大学がいずれも原曲レベルでのブームを巻き起こしたことを考えれば分かりやすい)。これは音MADの進化によってもたらされた一種の袋小路と言っていい。新しい原曲を持ってくれば合わせる素材は定番のものになるし、新しい素材を持ってくれば原曲はMAD適性の高いもの(フォニイとかきゅうくらりんあたり)になり、「腹を借りる」ような扱いになる。優れた音MADを作ろうとすると、素材の新しさで勝負するか、原曲の新しさで勝負するかという二択しか残されておらず、そしてシーンを席巻する作品の多くは、どちらかと言えば後者を選んでいる。
 このディストピアに対してTheasは、(一部の作品で)原曲と素材のどちらか両極端に重心を置くという対抗策(というかアンチテーゼ)を編み出している。
 例えば代表作の一つ「ああ 負債溜まっちまうよ」は、原曲の方に過剰接近した作品だ。これは「きゅうくらりん」を借金魔に追われる歌に改造した、原曲だけで自己完結した作品であり、替え歌やガビガビ戦法のエキスを取り入れつつ、それらをより音MAD的な手法に落とし込んだ作品として位置づけることができる。
 そして「丸亀製麺は」は、逆に素材の方に出来る限り重心を寄せている。繰り返すが「丸亀製麺は」では素材の丸亀製麺がクローズアップされ、原曲のハイドロシティゾーンの影響力は極限まで排除されている。現行の多くの音MADは、飲み飽きた粉薬(素材)を美味しく飲むために新しい味の飲み物(原曲)を持ってくるか、新しい粉薬(素材)を飲みやすくするために飲み飽きた味付きの水(原曲)を持ってくるか、というところをさまよっているのだけれど、「丸亀製麺は」はそのどちらでもなく、苦味の強すぎる粉薬(丸亀製麺)を飲ませるために最低限必要な水(ハイドロシティゾーン)しか用意しないという手法を取っている。
 要するにここでTheasは「原曲の腹を借りるだけで何が悪い」と開き直っている。この開き直りは、単に結果的にそうなっているということではなく、素材か原曲かという二極化に落ち込んだ音MADシーンを正確に把握していないと取れない態度だろう。
 言うまでもないが、面倒な方法論なんか考えなくても、原曲と素材を組み合わせるだけでもそれは面白い音MADになる。それがたとえ使い古された素材、使い古された原曲であっても、だ(だからこそ音MADは面白い)。しかし一方で、原曲でも素材でもない「何か」を追い求めて初めて飛び出してくるものも、確実に存在する。その「何か」についても、考えてみたいと思う。


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