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"吉原格子先之図"の構図の不可解さ

先日、太田記念美術館に、葛飾応為の吉原格子先之図を見に行った。そこで、不可解な点に気付き、勝手に考察したので聞いてほしい。


ポストカード

構図、変じゃない?

(上図はポストカードを撮影した物なので、分かりにくいため、この機会にぜひ本物を見てほしいのだが)

初見では陰影や色彩の見事さに、目を奪われていたが、ずっと見ていると…なんか…構図…変じゃない?

中央の中途半端な所に行灯や暗がりがあるのが、バランスとして不自然な気がする。現に、展示のチケットのデザインでも、右側がカットされてしまっている。チケットをデザインした人の気持ちがめちゃくちゃ分かる。

チケット

父親の北斎をはじめ、その他の絵師の絵は、風景画も美人画も、こんな画面の使い方をしない。同展示の明治以降の絵も同様。

応為にレイアウトの能力がなかったのかというと、そんな訳はない。月下砧打美人図、三曲合奏図、春夜美人図を見れば、一目瞭然。なんで、この絵だけ、こんなに変なんだ??何か意図がありそうだ。


美人の顔が見えない

また、格子が邪魔で、ろくに遊女の顔が見えないのも気になった。美人画を得意としていたはずの応為が、なぜ美人の顔を隠したのか?

隅々まで見ていくと、右上にしっかりと顔が見えている遊女が、1人だけ居る。レイアウトの結果の偶然か?とも思ったが、左下にも格子の間にちょうど顔が見えるはずの遊女がいるが、わざわざ濃い影で顔が隠されている。

ここにも、何か意図があると、思わざるを得ない。


考察

漫画のコマ割りではないか?

中央の暗がりは”コマ割り”ではないかと思う。同じ場面のようで、左右で場面が違うのではないか。

左から順を追ってみてみよう。

ポストカード
  1. 左は格子で顔が見えない遊女たちを客が眺めている。(素目ぞめき)

  2. 中央の縦長の暗がりを挟んで

  3. 右は店の入り口。その入り口から顔を見せているのが、前述した唯一、顔が見えている遊女。

つまり、これは客の視点で、店に入るまでの流れを描いているのではないか?


異時同図法とコマ割りの併用

過去と現在など、異なった時間を同じ場面内に描く漫画の構成を「異時同図法」という。鳥獣戯画が有名で、同一の同じ兎や蛙を、同じ場面に複数描き、時間の経過を表す技法。

この絵だと、一見、同一人物が複数描かれていないように見えるが、そもそも、同一人物なのかどうか、夜の暗がりでよく見えない。

それに、1800年代の大衆化された遊廓においては、量産型の遊女と量産型の客が、蠢いていても誰が誰だか区別がつかない。(*1)

客や遊女を、同一人物として見ると、先ほどの左から右への流れが「異時同図法」を用いて、表現されているとも解釈できる。


応為の絵は複数カットを描いている?

吉原格子先之図、月下砧打美人図、三曲合奏図、春夜美人図…

応為の作品だと特定されている絵は、たいてい中央で分割しても成立することに気付いた。たとえば、春夜美人図を上下に分割しても、違和感なく成立する。美人を見た後に夜空を見上げたという、2カットに分ける事ができる。それが一画面に収まっている。

北斎が動き回る人や物の一瞬を、写真のように切り取ったのに対し、応為は一瞬を重ね合わせて、映像を作っているのか?とも思えてきた。

その発想は、別の角度の光景を一画面に収めた、ピカソ(キュビスム)と同じではないのか?ピカソがキュビスムを始めたのは1900年代。その原型となったと言われる、ポール・セザンヌが「りんごとオレンジ」を描いたのは、1800年代の末。この絵が描かれたのは1818〜1860年。

西洋の技法を取り入れたとか何とか、諸説ある人物だが、こう考えていくと、応為は単に世界を追いかけたのではなく、北斎とは別の方法で、世界を先取りしていた存在なのではないのか?


*1:吉原の大衆化について


11月26日まで。生で見た方が良い。



以下、余談

細かい観察結果


陰影

格子や屋根の垂木に至るまで、角度によって一本一本かき分けられている。

光源の色は同じでも、提灯は赤、行灯は白というように、光の色だけが異なっている。そして、地面に落ちる、提灯と格子越しの光、それぞれ違う色の光の混ざりあっている所も綺麗にまとまっている。


北斎の動き

北斎の絵を見分けるのは、意外と簡単だと思う。物がたいてい踊っているから。人や鳥、虫はもちろんのこと、花も花弁を翻して踊っている。今回、同展示で様々な絵師の絵を見て回ったが、北斎とその弟子の絵は、他と比較して、伸びやかで心地が良い。

応為にも例外なく、それは引き継がれているようで、人物の動きが流れる様に自然に見える。


かんざしの透明感

華やかな装飾が美しい絵だが、中でもかんざしの表現に目を引かれた。

右側の歩いてる遊女を見ると、髷の影がかんざしに透けている。また、中央の格子のすぐ後に立っている遊女はシルエットで表現されているが、かんざしだけが光を通すので、明るい黄色をしている。

さらに、地面や左手の壁に目をやると、かんざし一本一本の影まで描かれているが、この影は人物の影よりやや淡く表現されている。



この見世どこだ?

展示では描かれているのは"和泉屋"と紹介されている。

宝暦年間(1751年~1764年)の資料を見る

1818年の資料がないので、1818年直前の資料がほしい。宝暦年間の吉原細見。具体の年は分からないが、1751年~1764年ごろ。これは、北斎が生まれた頃で、太夫が消えつつある頃。

  • A:16ページの座敷持ちの「こ?いさく」を筆頭とする「いつミや」。隣は「山口屋」と「竹まんじ屋」場所は「?ミ町中ノ丁」と読める。ミが付く通りは「伏見町」か「角町」。変体かなの読解には詳しくないが、「ふ」よりは「す」に近いので「すミ町」だと思われる。

  • B:4ページをよく見ると、あげ屋町にも「いつミや」がある。隣は「みのや」遊女は不明

  • C:19ページ目にも座敷持ちの「いさり?」を筆頭とする「い津ミ屋」がある。隣は「まんじ屋」「すミ町中ノ丁

1765年出版の青楼絵抄年中行事 上之巻  を見ると、この時代にはすでに格子の形のルールが適用されていた事が分かる。つまり、作中の全体を覆う格子は「大見世」の物なので、この中から大見世を探せば良い。しかし残念なことに、この年代の細見だと、大見世・中見世・小見世の表記がない。

最も作中と表記が近いのが、Cの「い津ミ屋」。しかし、色々な表記をされているので断定はできない。

さらに、「東京大学学術資産等アーカイブズポータル」所蔵の吉原細見では、具体の年号は不明だが、ちらほら太夫がいるので1751年前後と推察できるものがあり、この資料では江戸町一丁目・京町一丁目に和泉屋が存在する。ここには玉屋はあるが扇屋がない。こうして見ると、全体的に入れ替わりや移転も多かったように思える。


建物の形状

次に、作中の建物の形を見てみる。入り口が格子の右手にある。

年代が違うが1844年の「東京名所新吉原五丁町弥生花盛全図」を見てみる。大門の外側から見て、どの建物も入り口が左手に付いている。(隅のお歯黒溝に近い辺りには例外はあるが、中央の桜が植っている仲ノ町付近の建物はほぼすべて)1860年「東都 新吉原一覧」も同様。

そう考えると、大門から見て手前側の建物である可能性が高いのかもしれない。移転しても建物は変わらないと考えた。(まあ、何度も火事で全焼しているので定かではないが)

1764年から、この絵が描かれたタイミングで、見世が移転していない前提であれば、A・Cが濃厚なのかなと思う。

それに、左から右に客が移動している説が正しいとすれば、辻褄が合う(笑)


1825年の資料を見る

1825年の"和泉屋"を吉原細見で探すと、4つもある!
吉原細見 - 国立国会図書館デジタルコレクション

  • D:6ページ目の、座敷持ちの「九重」が筆頭になっている中見世"井平和泉屋"(花扇を筆頭とした「扇屋」の向い・江戸町一丁目

  • E:15ページ目の、部屋持ちの「木あ(←なんて読むのだろう?)の井」が筆頭の小見世"和泉や"江戸町二丁目

  • F:31ページ目の、座敷持ちの「初音」が筆頭になっている小見世"和泉屋"京町二丁目

  • G:33ページ目の、座敷持ちの「泉州」が筆頭になっている中見世"井三和泉屋"京町二丁目

1825年と宝暦年間の間で、ひとつとして同じ通りに面した見世がない。移転したか、入れ替わったかしている。

(参考:有名な「扇屋」は江戸町一丁目で1825年と場所を移していない。まだ筆頭ではないが「花あふぎ」の名前もある。(8ページ)「扇屋」は「江戸町壱丁目中ノ丁・左」の2番目に表記されている。「江戸町壱丁目中ノ丁・右」の2番目は「一のみや」と全く違う見世。1825年のAの見世は宝暦年間〜1825年の間に出来たか移転した見世だと分かる。)

1825年の吉原細見には「中見世」以下の和泉屋しかない。潰れてしまったのか、大見世から中見世になって移転したか…

いずれにしても、「大見世としての和泉屋」は宝暦年間と1825年の歴史の狭間で、失われてしまったようだ。

この絵は在りし日の「大見世としての和泉屋」を、惜しんで描かれたのかもしれない、と"妄想"することもできる。


吉原の全体像



追記:1795年の吉原細見の中に、「いつミや」を見つけた。が部屋持ちしかいないので、全く別の見世かもしれない。


その他メモ:
鎖国の時代にこのような表現をするということは、海外の技法を得る手段を持っていたのではないか、という説がある。その証拠として、よくあげられるのが、展示でも紹介されている隠し落款。この絵には名前が入っておらず、代わりに提灯一つ一つにバラバラに応為の名が入っており、これは名前を隠すためなんじゃないか!という説。単に女性だったので、身分を隠すためだったのか?とも思えたりしないでもないが…


今回調べている過程で、変な資料を見つけた:
「擬新吉原細見狂歌集」という偽の吉原細見が残っていた。何のためにこんな物が出版されたのだろう??


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