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ハッピーライフ

わがままに生きてみようと思った。「誰かのために」っていう欺瞞を捨てて、自分中心で生きてみようって。「人を助けようとするのは自分の苦しみから目を背けてるだけ」で「自己犠牲に酔ってる」だけだから、そんな気持ちで人に接するのは相手を馬鹿にしてる。自分を幸せにできない人間に他人を幸せにすることなんかできない。自分の気持ちに正直にならないと。じぶんをだいじにしないとって。

たとえば家族の好きなトンカツやオムライスばかりじゃなくて、自分が好きな物、でも家族が嫌いなマトンのカレー煮込みとかそういうのをたまに作ってみる。家族が嫌がっても以前のように謝ったりしない。「嫌なら食べないで」っていう。

仕事だって「子供が家にいる時間はなるべく家にいてあげなくちゃ」とか考えずに通勤1時間半の8時間勤務とかしちゃうもんね。しんどいのに時給が安い介護や、休憩時間に休憩できない福祉じゃなく、ちゃんと休憩とれる時給の高いところへ行って、稼いだお金で欲しいもの買って行きたいとこ行って食べたいもの食べるんだ。

好きな人たちとだけ関わる。嫌なことは全部嫌っていう。
夫に「今までずっといろんなことを強制されたり禁止されたりして辛かった。あなたの不機嫌そうな声を聞くのが辛い。あなたの機嫌ばっかり伺ってしまう自分が嫌い。離婚してほしい」
と伝えた。夫は「馬鹿なこというな。子供のこと考えろ」と言った。けっきょく離婚しなかったけど、夫が声を荒げることは少なくなった。快適快適。

それで、それで私は幸せになったか?

何か違う気がするのだ

遊んでいるとき、美味しいものを食べてるときはたしかににハッピー。稼いだお金で好きなものを買うときは自由を感じる。でもそれが終わって、家に帰る道で虚しくなってくる。私は私を大切にしているはずなのに。

液晶画面の向こうには戦争。壊れる建物、死ぬ子供。

画面が切り替わって国会では安倍派議員たちのパーティー券キャッシュバックのニュースをやってる。

ああ反吐がでる反吐がでる。自分だけを可愛がることはこのおっさんたちとおんなじで、世界中のひとの「じぶんをだいじに」の皺寄せがガザとイスラエルの子供たちを殺してるんじゃないかという気がしてくる。きょとんとした目で血を流すのは砂埃にまみれた小さな体。やけどした肌、チューブつっこまれた鼻。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。そういう気持ちを持ったところで彼らは1ミリも救われなくて、デモにも行ったけどそれで何か変わるわけでもなくて、しめっぽくてやだなぁ。ああ、気晴らしがしたい。こんど美味しいもの食べ行こうかなァなんて思う。

バイト先の宅配便の基地に行けばベルトコンベアを流れてくる大量のお歳暮だとかクリスマスプレゼントだとかダイレクトメールだとかを巨大なカゴや冷蔵庫に振り分ける作業をする。体を動かすのは好きなので仕事中はスポーツみたいに無心になれる。自分だって通販はありがたく使ってるし、この仕事にだって間違いなく意味はあるのだ。それでも、仕事が終わって帰り道になると虚しくなってくる。(夕方に悲しくなるときがあるのは子供の時からなので体質的なものかあるいは精神疾患のようなものかもしれない)

意味、意義、そういうものに自分が呪われている自覚はある。信仰がほしい。疑念のギの字も紛れ込まないぐらい鮮やかに心を奪ってほしい。でもそんなものはない。もしあったとしたら、それはたぶんとても恐ろしいものだ。

ある朝、ガザから帰国した国境なき医師団日本人メンバーの会見を見た。「本当にここまでの戦争の破壊力を思い知らされたことは今までなかったです。あまりにも自分達のやってることが無力だなと感じました」彼女の感じた虚しさは、どれほどのものだろうと思うと、なんだかもう「私をだいじに」とかどーでも良くなっちゃって、通勤電車の中で国境なき医師団のホームページから3000円募金した。そうするとなんだかいつもの労働に意味が付加されたような感じがして、気分がよかった。

たぶん私は、自分だけを幸せにしようとしても自分も他人も幸せにできない性質なんだと思う。それでいて貪欲で無私にもなれるわけでもない俗っぽい人間なのだ。

だからね、精神的にも物質的にも沢山の他者に依存し、依存されながら生きていくしかないの。そのように覚悟を決めてちょうどいい生き方を模索していこう。



えっいいんですか!?お菓子とか買います!!