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#4 野球偏歴2 〜自己紹介4

(前回のあらすじ)
同情心からヤクルトの応援を始めた私は、野村監督の就任からチームが強くなる過程をつぶさに追えたことでどっぷりとヤクルトファンになったのだった。

1 環境が変わって起きたこと

2000年、私の身に大きな変化が起こった。学校を卒業して社会人になるタイミングで、私は関東から出ることになったのだった。関東以外で希望を聞かれた私は少し考えたが、大阪勤務の希望を伝えた。大阪なら甲子園や西京極(京都)のヤクルト戦を見に行くことができると考えたからだった。
果たして私の希望は聞き届けられ、知人も地縁もない大阪での社会人デビューが決まった。多少の覚悟はしていたが、行ってみて驚いた。関東のスポーツ番組なら何を差し置いても最初に取り上げられる巨人の話題が2番手以降。そしてチームが低迷していようが負けが込んでいようが阪神の話題が延々と続く。当然のごとくヤクルトは字幕処理されればまし。パリーグも同様だった。
当時PCを持っていなかった私にとって、プロ野球の情報はテレビ・ラジオか新聞経由で知るしかなかった。しかし関西メディアの圧力の前にヤクルトファンができることなどあろうはずがない。興味はあるものの情報がない。しかも仕事で覚えることは山のようにある。この年ヤクルト戦は西京極の阪神戦1試合を見るだけにとどまった。私は、学生時代の熱が徐々に薄れていくのをかすかに感じ取っていた。

夏のある日、仕事で外出していた場所がたまたま近くだったので、仕事終わりにふらりと大阪ドーム(当時)に立ち寄った。近鉄とダイエーの試合だった。なぜ当時興味がなかったパリーグの試合を見ようとしたのか、今でもわからない。ただの気まぐれだったのか、たまには違う野球を見てみようという探究心からなのか、それともヤクルトへの情熱が少し冷めたところを埋めようとしていたのか。
ただ、この試合が終わったときの感覚は今も覚えている。端的に言えばなんじゃこりゃ?の一言だった。
まず、客がほとんど入っていない。試合開始とほぼ同じタイミングでチケット売場に着いたが、誰も並んでいないし、そもそも窓口の一部は閉じていた。
内野自由席のチケットを買ってドームに入場したが、まさに自由。これまで見てきたセリーグの試合で、横並びの列に1人も座っていないなんてことはなかった。しかしこの日、横並びの列どころか、1ブロックまるまる空席の場所があった。物珍しさでブロックのど真ん中に座ってみたが、徐々に居たたまれなくなり移動した。
そして試合もなかなかのもの。近鉄は劣勢だったが、終盤になってもバッターはブンブン振り回し、緻密さのかけらも無い。ヤクルトの野球を見てきた身にはあまりに衝撃が強かった。

数日経って、「あれはたまたまのことなのかもしれない」と考えた私は、仕事終わりにまた大阪ドームに向かった。今度はオリックス戦。しかし相変わらずチケットはあっさり買え、今回も自由のほどが過ぎる自由席。
しかもオリックスのライトはイチロー(この年が日本最後のシーズン)。あろうことか外野の近鉄ファンはイチローにも野次り倒す。この試合は乱打戦になったが、防御を二の次にしてしまう近鉄は打力でオリックスをなぎ倒した。
これで私は確信した。このチーム、今まで見てきたのと全く違う野球をやっている、と。
そうなると私の興味は一気にヤクルトから近鉄に移ってしまった。もうシーズン終盤だったため球場観戦は限られたが、新聞や雑誌を食い入るように読みあさり、数少ない近鉄の記事に一喜一憂するようになった。
ゴリゴリのヤクルトファンでも、タイミングときっかけさえあれば他チームのファンになってしまうことを、私は身をもって経験したのだった。

2 僥倖の2001年

シーズンオフの間、せっせと近鉄の情報を仕入れた私は満を持して2001年の開幕を迎えた。リピーターにやさしい外野自由席年間パスを買い(なんと代金3,000円! そりゃ経営も苦しくなるわけで)、週末に神戸の遠征にも出かけていった。来場ポイントはあっという間に溜まっていき、レプリカユニフォームはポイント交換だけで2着手に入れた。
前年最下位だったチームは投手力崩壊の反省をすることなく、さらに攻撃力に磨きをかけた。5点取られたら8点取り返す野球。常識を駆逐していく野球は大味だが、勝っている間はこれほど爽快なことはない。なぜかチームは首位争いを続けていた。
そして9月のある日、私は職場のボスから呼び止められた。
「近鉄応援してるんやってな?」
ボスは私に1枚の紙をくれた。近鉄の株主優待券で、バファローズ主催ゲームの好きな試合、好きな席を半額で買えるという。ありがたく頂戴した。
職場には大阪・藤井寺市出身で幼少期からの近鉄ファンという同僚がいた。シーズン中何度も試合観戦に出かけ、更衣室でレプリカユニフォームに着替えて颯爽と2人が並んで職場を後にしていた仲だった。その同僚と相談し、優待券は26日の試合で使うことに決めた。しかし、近鉄は西武、ダイエーと三つ巴の優勝争いをしており、前年あれだけ入りやすかった自由席が満杯になるという事態になっていた。そこで、どうせ半額になるのならとあえて内野指定席を買うことにした。

当日、球場に入った私は驚いた。360度見渡す限り客が入っている大阪ドームなど、オープン戦の近鉄ー阪神戦以外見たことがなかった。もっとも、一部の客の手には阪神グッズが握られていたが。
そして私は見てしまった。この日、2001年9月26日。日本プロ野球史上初で唯一、そしておそらく今後も起こらないだろう出来事を。

代打逆転満塁サヨナラ優勝決定ホームランを!

あの打球の軌道は、私が座っていた一塁側内野スタンドの席からは真正面に遠のいていくもので、打球が上がったことは分かったが飛距離がつかめなかった。ただ、ノーアウト満塁だったから外野フライで1点は入るかと考えた。次の瞬間、ドームがひっくり返るような大歓声と、周りの観客が誰彼構わず抱き合う不思議な現象が起こり、打球がホームランになったことを知った。
この打席は今でもテレビで取り上げられることがあるが、この試合を生で観戦できたことは今でも野球ファンとして自慢できる出来事だ。
その後日本シリーズのチケット争奪戦を経て、神宮球場の試合を近鉄ファンとして見るために高速バスで一時帰省。実家から裏切り者呼ばわりされながら(実家は今もヤクルトファン)、近鉄応援で幸せなシーズンを過ごしたのだった。

3 そして球団消滅

私は2002年も前年同様大阪ドームに通いつめ、ファンクラブにも入り、わずか3年前にヤクルトを応援していたとは思えない変貌ぶりでシーズンを過ごしたが、2003年に東京転勤を命じられた。大阪を後にするのは非常に悔やまれたが、それでも東京だったらパリーグの試合が見られると気持ちを切り替え転勤に臨んだ。
ただ、予想外だったのは新天地がとんでもなく忙しいことだった。仕事終わりにに野球に行くことなどありえない環境で、仕事が終わる頃には日付が変わるのが当たり前。週末は寝溜めして回復を図るしかない苦境に追い込まれた。2003年は東京ドーム、西武ドームで近鉄の試合を4試合観戦するだけにとどまった。大阪時代には考えられなかった数字だ。そして2004年5月、天地をひっくり返すようなニュースがパリーグにもたらされた。
その後の経緯はここで書くまでもないだろう。こうして私の近鉄ファンという経歴は5年弱で強制的に幕が降りた。今でも悔やまれるのが、2004年シーズンに1試合も近鉄戦を観戦できなかったことだ。今あるチームが来年もあるなんて保証はない。応援できるときに出し惜しみせず精一杯応援するのが正しい野球ファンの楽しみ方なのだろう。

華麗に宗旨替えを果たした私だったが、ファンの力ではどうにもできない理由で応援するチームを失った。とはいえ、そこでおめおめとヤクルトファンに戻るのも何か違う。この時私がとった次の選択肢は。
(その3につづく)

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