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 どうか、どうか助けてください。どうか、どうにでもこの苦しみと不安を取り除いてください。

 死なないことは簡単だ。死の反対が生きることであるのならば、呼吸をしているだけでそれが成されるのだから。つまり「死なないこと」とは「呼吸をしている状態」に他ならない。こんなの詭弁でしかないが、果たして「生きること」とは死なないことよりも遥かに難しいのだ。
 ある人はこう言うだろう。生きることだって呼吸をしている状態と何も違いないじゃないかと。たしかにそれはそうだ。死なないことと生きることは同義であるから、むしろ何かと差別化しようとすることそのものが愚行でしかない。
 死ぬことは、つまり心臓が止まればその時点で至れるものだ。だが生きることはそうはいかない。生きるなんて心臓が動いてさえいればいいだなんて考えるのは思考放棄だし、それこそ詭弁だ。

 生きているから苦しい。苦しいだけの人生ならば、いっそ今すぐにでも終わらせてしまえばいいだろうと、自ら死を迎えた先人たちは誰であれ皆そう思ったことだろう。
 太宰治は何度も女と心中を図り、自分だけが生き残り何度も失敗した。太宰治に文学の才能さえ無ければ、きっと彼は世間からはただの死にたがりとしか見られなく歴史にも名を残さなかっただろう。
 なぜこんなことを言うのかというと、それならばもう自分も死んでしまってもいいかもしれないと薄々思ってしまっているからだ。
 歴史に名を残したいわけではないが、インターネットくらいになら、少しだけなら名を残せるだろう。くあちるという存在は2年でそれほどまでに大きくなってしまった。かつてこの身に宿る命を救ったものが、今度は死を運んでくるとはよくできた話だ。くあちるの名の元となった「クァチル・ウタウス」は死を扱う存在だ。死を望むのならば、灰燼に帰させてくれるのだ。

 動物は種の存続を第一に生きている。それは人間だって例外ではないのだが、自ら死を望むのは人間しかいないのだ。こんなのどこまでも愚かだと思う。人間が誕生した時から、死という概念がどういうものであるかなんて伝わらなくて良かったんだ。一体誰が死を直視してしまうように仕向けたんだ。そいつこそが諸悪の根源なのだきっと。
 万が一にも動物が死期を悟るようなことがあったとしても、そもそも死という概念がどんなものであるかなんていうのは誰も教えてくれないだろう。動物は、死ぬその時になって初めて死ぬことがどんなものであるかを知るのだ。もしかしたら野生で群れで生きてる動物は死を少しは知っているかもしれないが、だからと言って動物らしい生き方をやめて人間らしく生きようとはしない。

 それで言うと、人間だって余裕のある生活をしていれば常日頃から死を考えることなんてしなくて済むだろう。死を直視している状態であるというのは、生活か精神、もしくは両方に余裕が無くなっているということの表れだ。
 こうなってしまったら休む以外に選択肢はない。だけれど自分の場合、そうやって何ヶ月休んでいるんだと言われる始末。ならば死ねばいいのだろうか。他人から見れば自分は弱ったふりをしているようにしか見えないのだろうか。
 2年前、ODで救急搬送された時には家族は心の底から心配してくれた。しかし月日が経つにつれてその心配も薄れていった、否、この状況に慣れてしまったようで、いくらこちらが弱っていようと普通の生活を送れるだろうと踏んでいる。それは信頼などではなく、所詮放任なのだ。
 こんなことを言うなんて、どこまでも親不孝だ。自分は。

 願わくば宇宙の終わりまで生き永らえていたい。もしも自分が不老不死であったのならば死に怯えず、安楽的な時間を過ごしていただろう。
 だがそれは現実的ではない、人間的ではない。命は有限で全ての終焉たる死が待ち受けている事実を知りそれを畏怖してようやく人間的であると言えよう。
 だが人生において享受するべきなのは死の概念などというくだらないものではなく、有限の時間をいかに安楽的に過ごせるかだ。もっとも、死ぬことが安楽に繋がるという思想なのであれば例外だが。

 ところで今すぐにでもこの苦を楽にできないものだろうか。
 何を考えても行き詰まり、不安でやはり体が動かせなく、そんな状態に成り果ててまでどうして健常で普通の生き方を求められようか。
 2年前から、初めから限界だったのだ。それを常にその場凌ぎで誤魔化し続けてきただけ。
 常識も、倫理も、人間性も精神性さえも欠損したままで人間のふりをしているだけ。自分は、人間の形をした何かなんだ。
 きっと幸せにはなれない。今だけは何を考えようと総じて破滅に誘われてしまう。
 ただ、救われたいだけなのに。

  どうか、どうか助けてください。どうか、どうにでもこの苦しみと不安を取り除いてください。

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