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愚者の生き恥

 何かを作り出さないと自分から全ての価値が無くなってしまうのではないかという強迫観念に襲われています。現にこうして文章を書き始めたのはそれが理由です。
 数日前から自分は得体の知れない何かに酷く焦っている。その要因はそれとなく自認しているのですが、まさかこのような事態を引き起こすとは思ってもみなかった。
 この人格、くあちるがインターネットよりもたらした福音と苦悩は現実を生きる自分には荷が重いように思えて仕方がないのです。
 それなら肩の荷を下ろすのかと問われてもそれには応じない。苦悩なくして人間は成長しないからです。僕はこれを転禍為福としてみせたい。

 口だけは達者なのが自分の何よりの欠点であり、そこに行動が伴わないのは目も当てられない始末でしょう。
 なので今するべきなのは本当はこんな屁理屈のような駄文を連ねることなどではなく労働であって、頭と手をスマホの画面に向けて動かすよりももっと先にやるべき事は決まっているのです。
 未熟者であるからこの順序の重要性をそれほど理解できないでいる。自分を客観的に見続けることでなんとなくわかった気になっていますが、本当に理解していたら潔くくあちるという生き方そのものを改めているはずです。
 それでもギリギリのところで「くあちる」と「自分」というように人柄と呼び方を使い分けるのはこのような苦し紛れのせめてもの自覚と諦めがあるからこそなのでしょう。この行いが正しいかどうかなんて時間が経たなければわからないことだし、仮に悔いることになったとしてもこの時間は覆せない。現在の選択は現在でしかできないのだから。

 救われたい。その一心で死の淵を歩み出してもうじき2年になろうとしている。ODを寛解できていないことから未だ救われていないのは決定として、それでも自分はいま、蜘蛛の糸を掴めているのでしょうか。かつて地獄の底に落ちた惨めな人間は血の池地獄に溺れずにいられているのでしょうか。
 救われたかどうかなんて自分にしかわからないのにどうして疑問形なのか。それは、本当は何が救済で幸せでどういう生き方が理想なのかという解を既に自分の中で知っているからなのでしょう。
 それなら蜘蛛の糸は既に手中にあると言っても過言ではないのかもしれないです。しかし地獄を這い出たその先の光景は極楽などではなく、かつて自分がいた現実でしかありません。正規の道に遠回りをして辿り着くような馬鹿げた話です。

 もしもそんな現実を迎えたとして、果たしてくあちるでなくなった自分はどう生きるのだろうか。
 仕事に就いて家庭を持ち老いていくのでしょうか。そんな至極一般的な過程を想像で、しかも朧げにでしか思えないのはきっと自分がおかしいのです。
 社会と人から切り離され見捨てられたのならば、その時こそようやく自分は死ねる。それとも宿願を叶えて温かな死を迎えるのか。人生の結末はこの2つのどちらかに転ぶ。願わくば後者であってほしいものですが、こんな受動的ではとても理想は遠いように思えるのがますます惨たらしい。
 まず第一に社会人でもない怠惰な自分は現実を見るべきだというか……それともやはり開き直ってこのように夢想ばかりしているのがお似合いなのか。
 どの道生き恥なのは確かなのでいっそ全てを諦めのらりくらりとしている方が自分らしいのでしょう。襟を正すのは子供の頃から性に合わなかったのでこの方が気が楽だ。

 あえて言わせてもらいますが、人並みの人生は求めてません。そこは過程にしか見えず、求めるのは人並み以上の人生に決まってます。

 やはり、僕は口だけは達者なのですね。
 これ以上に愚かな生き方はない。

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