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一過性の軽い躁

 自分的にとって精神状態とは軽躁である時が最も危険であるのだが、それでいながら、これくらいでなければ日常生活をまともにこなせない自分の社会性の無さにはため息が出る。
 くあちるという人間性が芽生える以前はさほど問題なく送れていた社会生活や人間関係も、以降からは2年経過しても崩壊したままだ。
 これが本来の自分の在り方だったのだろうと言えばそこまでだが、そうなると「普通だったはずの社会性」というものに懐疑的になる。素直に話を進めるのだとすれば、本当は社不だったのにそれを自覚せずにいられたからこそ普通であるという認識でいられただけで、たぶん違うと思うけれどこれこそが「我思う、ゆえに我あり」の「方法序説」に近い気がする。簡単な話、自分が社不でメンヘラだということを自覚したらその時にはもう自分はそうであるということ。

 今日、ネット掲示板でハイプロンをODしてる人を見かけた。予想通り総叩きに遭っていたがハイプロンの抗不安作用のおかげかどこか強い姿勢が見えた。やはりメンヘラはメンヘラを集めて、そのコミュニティ内で馴れ合っているのが一番いいなと改めて思った。あれでは海のど真ん中に生身で放り投げられているようなものだ。
 まあネット掲示板の方といえばODスレを立てる側にも責任があると言えばそうなのだが、同じ事をしていた身としてはなんだか自分まで叩かれているような気分になってしまう。この叩きの要因として、スレ主の性別が女性であったということも大きく絡んでいるがこうなるといよいよメンヘラである女性はネット掲示板に出現しない方がいいということになる。ポケモンでいうところの4倍弱点を突かれるようなものだ。

 そもそも平日の昼間からネット掲示板を見ているこの人生はなんなんだ。とことん自分が情けなく思えてくる。
 それならまだお金にならない文章をこうして無心で書き殴っている方が生産的であると信じたい。それでも平日の昼間から何をしているんだというこのやるせなさは拭えないわけだが。

 同じような事象として、ここ数日のTwitterのおすすめ欄が日によっていくつかのカテゴリーの投稿ばかり表示し始めたというものがある。元よりそういう仕様であるからそういうものだと言われたらそれ以上何も言えないのだが、だからといってその日にひたすら同じ内容であれこれほぼ一つの話題で盛り上がってるツイートを見せられても何も面白くない。
 少し前までは「このツイートに興味がない」として当該ツイート諸共そのカテゴリーを表示させなくなるということもできたのだが、ある日からそれもできなくなった。
 こうして病的なまでにインターネットに取り憑かれている方がおかしいのだろうどうせ。悪かったなネット中毒で社不でメンヘラで。
 どう考えても私怨からの被害妄想と逆ギレだなこれ。

 いつも、自分がまともじゃない理由を病気のせいにしたくないと思っているが事実病気のせいなのだ。もしそうじゃないのだとしたら危機感を持った時点でインターネットなんかに目もくれている余裕が無いはずだからだ。いや、余裕が無いからこそ現実逃避のためにネットに意識を逃しているというのもある。
 優先順位がおかしいことには気がついている。そこで自分を最も社不たらしめている要因は、現実生活に力を注ぐことではなく現実逃避であって、外に出て社会生活を送るのではなく、部屋にこもってインターネットをしていたい。こっちだって事情があるのに易々と「なんでそんな生活をしてるの?」なんて言われるのは、たとえそこに悪意が無くても少し間に触る。

 好きで無職をしているが、そうしていなければ生きていられないと言い始めたらきっと誰からも甘えだと指を差されるのだろう。だからこんなこと本当は言いたくない。決して病気を盾にしているわけではないのだが、やはり自分は社会がどこまでも怖い。社会が怖いというのは無職であることを正当化しているだけに過ぎず、病気の根本的解決からは目を逸らしている。
 自分は病気だと自己暗示をかけ、そうして弱ったふりをしていればみんな優しくしてくれると勘違いしているから、やはり自分は所詮そこに甘えているだけなのだ。

 定年を過ぎ、再雇用で以前より少ない給料で働いている父がこれを見たらきっと憤慨するだろう。こんなんだから自分には父はもちろんのこと、身内に合わせる顔がない。
 ネット掲示板では見知らぬ人から見境なく叩かれもするが、現実では顔の知る人々から色々言われる始末。

 文字通り、生きてるだけで苦しい。この苦しさだけは病気のせいだと言いたい。
 病気さえ無ければ自分は健常者として普通の社会人であっただろう。普通の社会人として少ないながら給料を貰って、そのお金で並の生活をしていたはずだ。
 それがどうだ。自分がメンヘラだというのを自覚しただけで一瞬で人生が変わってしまった。メンヘラの自覚、たったこれだけでだ。
 何事もポジティブに捉えるための理屈なんてどう見ても綺麗事だ。そんな簡単に清濁を合わせ飲んで自己を許容できるのはよっぽど心に余裕がなければ到底不可能。こればかりは日本人の心が狭いだの嫌儲思想が蔓延しているというより、そういった経済事情や人間という種族そのものが持つ元来の人間性だといわざるを得ないだろう。さもなければみんな仲良く平等になっているはずでそうなっていなければおかしいのだ。

 しかし弱がって一方の自分がそんなことを言ったところでその発言はどこまでも、病気を盾にした現実逃避の域を出ない。
 どんな事でも適材適所だというのは正しいと思う。それが望むままになっていたら自分だって大した不満も不安も抱えずに社会でやっていけただろう。
 適所があっても適材に至るほどのスキルが無ければ門前払いをされるのに何が適材適所だ。それも綺麗事じゃねえかくたばれ。なんていうのは今でも思っているし、たぶん死ぬまでずっと引きずる。

 弱者なのが悪いんだろ病気なのが悪いんだろ。死ぬななんて簡単に言ってくれるがそれじゃあそれならお前はどうくあちるの人生を支えてくれると言うんだ。
 善意があるのは理解してるし、皮肉などではなくそういう言葉はありがたいと思ってる。だけれどやはり、気持ちと文字だけではビルから落ちている人も海で溺れている人も救えない。
 たとえそれが真実や本質ではないとしても、自分自身がその思考に囚われてしまっているから自分の中ではそうなのだ。
 ほら正当化した。こんな人生、どこまで行こうと屁理屈ばかり並べるのだろうな自分は。

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