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中央研究所の役割とその変遷


企業と中央研究所

日本の大企業は中央研究所の成果によって競争力を増し収益を積み重ねてきましたが、この中央研究所が近年になりうまく機能しなくなってきた事を日本企業失速の要因として挙げる人も居ます。

日本企業が戦後、高度成長期に大きく成長できた要因は研究開発を重視し、投機的な発明から予測可能な事業にシフトするための基礎研究成果の蓄積や商品開発力を増した事は間違いないでしょう。

日本企業の多くが「事業部制」を採用しており、成長過程で重複する研究部門を統合したり、更なる研究開発の必要に迫られ、全社横断の中央研究部門を設置し機能させてきました。

日本型企業と中央研究所体制のマッチングが効果を発揮した高度成長が成熟期に入ると各産業での時間差はあったものの、後発の新興国の競争力強化など国際的な大競争時代が始まり、製品の機能や品質を向上させる技術的限界を乗り越える事が競争力の根源であった時代から、ユーザーのニーズを的確に把握して対処する事が求められる時代なり、製品サイクルや変化のスピードが以前よりも早くなるようになり、企業本体の採算性が徐々に悪化していく中で短期で結果が出ない傾向の長期の研究開発を続ける余力が無くなり「選択と集中」というリストラブームの到来によって研究施設の規模を縮小されたり廃止されたりした事もあって日本企業の基礎体力とも言うべき新規分野探索に繋がる基礎研究の力が落ち、それ以降は日本から生活パターンを変え、商品名が一般名詞化するほど浸透するような魅力的な大ヒット商品が生まれて来なくなったと言われています。

また先行していた企業が競争にさらされると商品開発はこれまでの商品を更に高性能化したり、付加価値を高める事で商品価値を維持しようとしますが、ある程度成熟した商品構成であるほど顧客の新しいニーズを取りこぼしたり、大多数の顧客が求める「そこそこの機能で手頃な価格」というボリュームゾーンから外れていくことになり、価格攻勢を仕掛けてくる後発ライバルへの優位性を失う事に繋がる「テクノロジー・プッシュの罠」に陥るケースがまま見受けられました。

この乖離が起こる理由としては技術の変化が急速な時に研究開発部門を市場という全社的なワークフローから切り離していた事も起因するようです。(ゼロックス社の分析による)

中央研究所の歴史

企業活動に貢献し科学的探究と生産技術を結び付ける研究所のルーツは、商工業を打ち立てた頃のアメリカ企業に遡ることが出来ます。

それまで研究や開発というのは大学や発明家の研究、起業家個人の直感的なひらめきに大きく依存してきました。

しかし科学的な解明が進み、鉄道事業や鉄鋼業に必要な素材研究など踏み込む研究内容が高度になっていくにつれ、個人の資質に依存しては永続的な事業が継続できない事やそれまで部署ごとに行ってきた研究開発を統合した「研究所」を持つようになります。

この時代、アメリカの学会は商業主義とは一線を画す「純粋科学」志向が主流な考えであり、研究者も企業に雇用される事をよしとはせず、何倍の年俸を提示されても固辞して自身の研究を続けるような風潮があった事から、優秀な研究者を雇い入れたい企業は基礎科学のような直接は商品開発に結びつかない研究をも容認するようになっていました。

研究者も企業が用意する最新の研究機材を利用しながら大学などでの研究を継続できる事で徐々に企業の研究所に籍を置きながら研究を進めるようになります。

こうしてそれまで個人の発明家や欧州から部品輸入や技術導入して生産物を販売する事が主流だったアメリカに当時の先端研究分野であった化学や電磁気をドイツの大学で学位を修めたようなアメリカ人研究者らが企業の研究所で「知的資産の蓄積」と「研究手法の確立」を内部化していくという成果を残していきます。

また企業自身が成長し巨大化するにつれ中央研究所を持つ事は独占禁止法の制裁を回避できるものと経営陣が考えた事により多くの企業で中央研究所を保有する流れが出来た一因と考えられます。

中央研究所の成果が新しい市場を開拓し大きな利益を企業にもたらした成功例としてデュポン社による化学合成繊維ナイロンの開発事例が知られています。
分子量の大きなポリエステルの高分子化を研究していたチームは「低温で細く引き伸ばせる」という特性を発展させて商業的な発展を模索しますが、やがてポリアミドとして知られる高分子を発見、これがナイロンとして製品化され同社に大きな収益をもたらすと同時に特許による市場独占とライセンス使用料という特許収入という知財の重要性を証明した格好になりました。

アメリカ企業の特徴として軍事産業への公的な支援が手厚く、軍事システムの拡充と一体化してコンピュータチップやレーザーなど現代の生活基盤に欠かせない先進研究が行われてきた点も特徴の一つとして挙げられます。
それは同時に東西冷戦終結からの軍縮の流れて企業が抱える研究機関の役割が変化せざるを得なかった事も意味します。

技術志向で成功を収めて来た企業では研究部門は経営会議においても発言権を有し、市場開拓、顧客ニーズの実現、コア・コンピタンスの強化といった視点から戦略ビジョンの策定に影響力を持つようになりました。

研究開発の4つのタイプ
・探索的研究、将来の選択肢を生み出し戦略的ビジョンに寄与する最も不確実性が高い研究
・市場動向や新技術の見極めで技術情報の提供
・能力拡大の研究で研究目的が明確であり、投資資金の回収が見込まれる
・中核技術への投資で経理的にも明確

研究開発部門は新技術によってもたらされる業務全般への影響からワークフローの改善までを研究範囲とし提供する事が理想とされます。

研究開発の黎明期には作業員の動作を記録するシステムが考案され、それによって様々な作業の動作が数値化された事で製造にまつわる改善項目が洗い出され人間工学の深化にも貢献しました。

このようにして作業の効率化の余地を探るプロセス・リエンジニアリングも研究部門に求められるようになります。

企業研究機関の役割の変化

かつては科学研究と生産技術を結びつけ企業の富の源泉となっていた研究と開発部門もグローバルな国際競争時代になると自動的に研究開発費が上乗せされる時代は終焉を迎え、当初期待されていた役割を果たせなくなってきました。

しかし企業が新商品や新サービスを開発するためには常に新しい技術開発が必要となり、その変化の速度は更に速くなっていきます。

これに対して企業はM&A(企業買収)によって一定の成果を挙げている成長株の他社や事業を獲得してその成果を自社のものと融合し、新規市場改革に乗り出すことで基礎研究にひつようだった時間短縮を果たそうとする傾向が強まっています。

単に時間短縮や新製品の市場投入のタイミングのための投資というばかりではなく、自社で賄いきれない研究の知的財産がグルーバルに散逸しているのを結びつける役割でもあり、クロスライセンシーによる事業提携の加速もこの動きに含まれてきます。

また研究機関を独立した組織として持っておくのではなく、選抜された顧客との共同開発で市場のニーズと切り離されず市場投入まで一体性を持たせる試みも一般化してきました。

これは

研究 → 商品開発 → 生産 → 市場投入

https://imidas.jp/genre/detail/K-126-0019.html

というデュポン社のナイロン開発からの成果独占のようなリレー形式による「リニア・モデル」とは一線を画すプロセス開発のアプローチになり開発段階から問題点を洗い出し、模擬的に市場に晒された時の評価を事前に知り、顧客から出る改善要望のフィードバックを予め反映した状態で市場に投入できる学習機会にもなり独善的なテクノロジー・プッシュの罠に陥る事も防ぐ効果が期待できます。

このため垂直統合的な研究機関を持つと言うよりも事業部がそれぞれの事業にフォーカスして研究部門を持つように回帰もしてきました。

このように企業における研究活動の役割は、黎明期の自然科学を解き明かし新規事業分野の開拓といったものから、企業に競争力を担保する機関、戦略ビジョンを定める判断を促す力となり、競争が激化した現代において研究に求められるのは新たな事業分野の創造というよりは、現業の効率化といったような実用的で即時性こそが重宝される時代になりました。

また研究範囲が広がるにつれ、他社との協力が不可欠となってきたことから共同研究を目的としたコンソーシアムやジョイント・ベンチャーが立ち上がり、人材交流を促進、新しいアイデアを創出しています。

政府や半導体業界からの共同出資を受けたSEMATECHは、単に共同研究するのみに留まらず、十の大学に半導体研究室が設けられ半導体企業から指名された研究者や技術者と交流し、次世代半導体に必要な要素技術だけに留まらず環境や安全、健康と言った分野でも研究が行われ、政府や企業からの資金援助を受けるいわば「バーチャルで結びついた中央研究所」を成していました。

中央研究所によって大企業に内部化された知財が競争原理と言う圧力を受けて成功の条件を求め再び「外部化」される時代に戻りつつあると言えるかもしれません。

日本企業の中央研究所

日本の企業もアメリカ企業に倣って、発展の過程で各事業部に偏在していた研究部門を集約し中央研究所を持つようになりました。

この体制は高度成長期には多くの研究成果で新製品の開発や製品の品質改善、生産効率の改善に大きな成果をもたらしました。

しかし1985年のプラザ合意による円高で日本製造業の製品価格競争力が削がれ収益率が悪化してもリストラが容易に行えるような法体系、経営慣習ではなく余剰人員を社内に抱え続けました。
これは労働集約型の組立産業は人手を要し装置産業に比べると採算性が低かった事に起因しましたが金融政策に依る金融緩和からのバブル経済に延命された事で却って高コスト体質になり円高の利益率悪化と相乗的に業績悪化させていきます。

「バブル崩壊」から経営が悪化すると各企業は「選択と集中」の名の下に直接収益の数字が見えにくい研究開発を削減するようになります。
先細る収益に目先の黒字化が目的化し金銭的、人的、時間的、精神的な余裕を失ってイノベーションから遠ざかり大きな事業展望が描けなくなるという悪循環に陥っていきました。

まとめ

自然科学的な基礎研究から先端分野が深化し専門化した。
競争の激化で研究成果と収益を結びつけにくくなった。
関連分野の拡大で自社のみで研究成果を出し囲い混むことが困難になった。
研究の重点が基礎研究から応用研究にシフトした。
連邦政府が議会の都合で雇用などに結び付きやすい分野に重点的に予算配分するようになると企業側も大学や研究機関へ資金援助するようになった。

中央研究所と言っても企業ごとに立ち位置も企業文化も役割も様々であり一様ではないので大きな括りが正解かという思いもありましたが、その中でも経済や政策の影響を受け様変わりしてきた様子が見てとれました。

日本においても産学共同の研究が私たちの生活を変えてしまうような成果が続々と生まれてくるようになるのかもしれません。

参考資料

・書籍

https://www.amazon.co.jp/gp/product/4815809429/ref=ppx_yo_dt_b_asin_title_o04_s00?ie=UTF8&psc=1


・web資料
中央研究所とイノベーション、その興隆と衰退 日経XTECH西村 吉雄



テクノロジープッシュ・イノベーションの3Stepモデル
http://www.js-mot.org/journal/pdf/489_56.pdf


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