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台湾アイデンティティとは

2024年1月13日に台湾総統選挙が実施されます。

安全保障や親日的な国民性で語られることが多い台湾ですが、ときより中国側への機密漏洩などの不祥事も取りざたされ、親日・親米のイメージとのかい離に困惑させられる事もあります。

日本の台湾統治時代に台湾の治水事業に生涯をささげた日本人技師八田與一を顕彰する銅像を国民党の弾圧から隠し続けた村人の話が日台友好の美談として伝わるかと思えば、その銅像を破壊した事をSNSで喧伝した活動家の存在など、日本としての台湾とのかつての関りも複雑な影を落としている事が伺われます。

多彩なグラデーション

2023年6月に台湾で行われたアイデンティティに関する世論調査(国立政治大学選挙研究中心「台湾民衆台湾人/中国人認同趨勢分布」)では
・自分は中国人である:2.5%
・自分は台湾人である:62.8%
・中国人であり台湾人でもある:30.5%

であり調査が始まった1992年以来、自分を台湾人であると自認する割合が若い世代を中心に増加傾向であるのに対し中国人であるとの割合は減少傾向が続いています。

この「中国人」を中国共産党と見なす向きもありますが歴史的には中華民国国民を意味するものと推定できます。

また、同大学の台湾と大陸中国との関係についての世論調査では
・統一を堅持する:1.6%
・現状維持の後に統一:5.8%
・現状を維持する:32.1%
・現状維持の後に独立か統一:28.6%
・現状維持の後に独立:21.4%
・出来る限り早く独立:4.5%

という回答になっており、他の調査でも現状維持、もしくは大陸からの独立や台湾建国を志向する回答が多くなっています。

台湾として独立したいものの、独立宣言や建国の動きは大陸中国に台湾への軍事侵攻や経済制裁の口実を与える事に繋がる事からの消極的選択とも見て取れますが、「一国二制度」を反故にされた香港がどういう運命をたどっているかを見て大陸との決別がやや優勢になりましたが、大陸中国との関係が良好であった時には中国による国際社会に対する台湾けん制の動きが抑制され、台湾が国際社会で活動の幅を広げた過去もあり、微妙な回答に揺れ動いていますが、「独立」や「統一」という両極の回答は台湾では少数派となっています。

民主進歩党=親米・親日で反中、独立志向
台湾国民党=親中、統一を志向

と見なされることが多いと思いますが台湾国民党のルーツである中国国民党は中国共産党と中国での覇権を争って敗北を喫した関係になります。

一時的に共闘して大日本帝国などと対峙した「国共合作」を経て「国共内戦」を繰り返してきました。

このため国民党支持と言ってもその主張も様々であり、対立する民進党支持者も、その反体制という成り立ちには国民党の敵である「進歩的な」中国共産党にシンパシーを抱く者から国民党による民衆弾圧に反抗し、自由で民主的な国家としての独立台湾を目指す者まで様々であるとされています。

このため台湾理解には構成民族や国際的な立ち位置などの歴史的な背景を紐解く必要があります。

台湾の歴史

台湾は元々20程度の原住民族がいる島でしたが原住民の激しい抵抗と歴代中国皇帝の所領とはみなされなかった事から統一された事はありませんでした。

16世紀頃、明朝時代には倭寇などの海賊が台湾島付近を拠点に大陸に対する略奪行為などをしていましたが17世紀にオランダ(ネーデルラント連邦共和国)が明の支配下にあった澎湖島を占拠し台湾にアジア進出の拠点を築き、スペインなど他のヨーロッパ諸外国や現地の漢民族を討伐していき今の台南市の郊外にゼーランディア城を築き台湾統治の拠点としていました。(ゼーランディアとはオランダのゼーラント州(Zeelandia)に由来、ニュージーランドの「ジーランド」と同じ)

38年間のオランダ部分統治の間にプランテーション経営や盛んになった交易の労働力として大陸からの移民約8000人が移り住み、また一部には少数ながら日本から渡った者もあったようです。

中国の明の支援を受けてオランダに対抗する勢力として戦っていた鄭一族は明が滅亡すると新たに興った清朝に対し、中国南部で旧勢力を集めて対抗しますが失敗し、台湾を清に対する抵抗の拠点すべく鄭成功がオランダ勢力を撃退して台湾を統治しました。

22年に渡る鄭成功の台湾統治は清に敗北して終わりをつげ、鄭一族と共に台湾に渡った大陸側の人々は、台湾を拠点にされないように大陸側に引き上げさせられました。数にして3万5千~5万人と言われています。

この時の台湾の全人口は62万人だったと推定されています。

清では台湾を放棄する案と台湾を統治する案が出されましたが、再び反乱の拠点にさせないために統治する事になり1684年、福建省台湾府と定められました。

時は流れ1871年、漂着した琉球漁民が台湾の原住民に殺害された事件が起きると日本はこれを討伐するとの名目で軍を進駐させる台湾出兵が起きました。

この事件や清仏戦争から清朝はそれまでの辺境の緩やかな統治を改め台湾省を新設し積極統治に乗り出し、防御を固めると同時に鉄道の敷設など近代化に乗り出しました。

1895年、日清戦争の結果締結された日清講和条約(下関条約)で台湾と澎湖諸島は日本に割譲されることになりました。

すぐに日本への割譲に反対する勢力によって台湾民主国の独立が宣言されました。
これは台湾初の独立国家宣言であり、アジア初の共和制国家でしたが日本軍の攻撃により期待されたフランスの支援が得られず、国際社会の関心が遼東半島の還付問題(三国干渉)に終始し、また宣言を主導したのが清朝の官吏であった事から台湾内部からも大きな賛同が得られず、ごく短命に終わっています。

この頃の民族自決権の精神は後の民進党にも評価されています。

日本初の海外殖民地経営で工業は本土、農業は台湾とする日本の台湾統治時代の前期武官総督時代は抵抗勢力の武力鎮圧が重視され警察制度や台湾の実態調査が行われ、日本語教育を通じた教育制度の近代化が行われ、続く文官総督期には内地政策が台湾にも適用される「法三号」が交付されていますが同化政策は制限されたものでした。

後期武官総督時代に入ると皇民化政策や創氏改名が為され、日本化が推し進められました。
1942年に陸軍が、1943年には海軍の志願兵制度が台湾にも導入され、1945年には徴兵制が敷かれました。
それまで台湾社会で差別的な待遇を受けて来た原住民は協力すれば援助を、刃向かえば討伐という日本統治に順応してジャングルにおける身体能力が高く評価されたことなどから積極的に兵役に応じたとされています。(高砂義勇隊

1945年8月の日本の終戦、9月の降伏文書調印でGHQの委任を受ける形で中華民国は台湾にも進駐します。(双十国慶節)

中華民国政府は台湾の人々を「奴隷化教育を受けた者」として政治から遠ざけ、日本文化を廃し、それまで異なる民族の共通語として定着していた日本語を禁止して中国語(北京語)を「国語」と定めました。

その後、戦後問題の対立で中国大陸では抗日戦線で共闘していた中国国民党と中国共産党の連合政府の思惑が瓦解し再びその覇権を争う第二次国共内戦に突入します。

1947年には台湾で闇市の取締りに、それまでの国民党政権の役人の汚職や軍人の狼藉に不満を募らせていた台湾民衆の怒りが爆発し大規模な抗議デモが起こると、国民党政権は大陸から軍隊を送り込んでこれを武力鎮圧し、数万人と言う多くの犠牲者が出た「二・二八事件」が起きましたが、この事件によって台湾人の民族意識や中国人との意識の差が明確になった出来事でした。
しかし国民党政権下ではこの事件をはじめとした政治的な話題はタブーとされ、密告が推奨されたことで人前で政治を語る事は危険であり、推定十万人以上が弾圧され数千人が犠牲となった白色テロ時代を経て長らく封印されていくことになりました。

1949年になると第二次国共内戦で劣勢に立たされた中国国民党はかつての鄭成功のように台湾を反抗拠点とすべく大陸から集団移住して、戒厳令を発布するなどして現在の台湾=中華民国という構図になりました。

台湾省の外から来た国民党勢力を「外省人」、明清時代に台湾に住み着いていた人々を「本省人」として区別され、少数の外省人による台湾支配が始まります。
(外省人は13%、本省人は85%(閩南民系73.3%、客家人12%)、台湾原住民が1.7%)

1952年の日本政府と中華民国政府間の「日華平和条約」の中で日本が台湾などの領有権を「放棄」したこと、中華民国政府は台湾や澎湖諸島の住民は日本国籍から中華民国籍に復帰する事を宣言しました。

しかし日本国籍を喪失した事により戦後補償が受けられなくなった台湾の軍人軍属の数は21万人とされ慰安婦問題などもあり日台関係に暗い影を落とすことにもなりました。

後にこの日華平和条約やサンフランシスコ講和条約の有効性をめぐって台湾の帰属や中華民国の台湾統治の正当性を問う問題にも発展します。

1960年代には日本を拠点にしていた国民党政権に反発する民主活動家らが中華民国に強制送還されるという事件が相次ぎ、欧米で人権問題になり、台湾の活動家らは活動の拠点を日本からアメリカに移す動きがありました。

日本のリベラル(左派)は反米であり、日中関係に重きを置く立場からアメリカに支援される台湾中華民国政府や日本政府に対しては批判的で、共産主義支持と一体化する動きもありました。

しかし、台湾独立派が北米に拠点を移すと中華人民共和国が台湾独立派を「一つの中国を脅かす反動派」と糾弾した事や中華人民共和国の少数民族に対する処遇が理想とはかけ離れた幻想であると知れ渡るようになり、台湾の共産主義活動は下火となりイデオロギー的な闘争から民族自決的な連帯にシフトしてきます。

「一つの中国」「二つの中国」

国民党政権は台湾撤退前に選出されていた中国国民党の中央民意代表機構(国民大会代表、立法委員、監査委員)を引き継いでいましたが、中国の正当な唯一の中国政府であるとの立場上、実効支配が及ばなくなった中国大陸の地方議会選挙が出来なくなると委員の選出を停止し終身任期を与えて体制を維持しました。
これは「万年国会」として問題視されましたが、李登輝総統時代の憲法改革まで継続されました。

一方、中国大陸を手中にした中国共産党も「一つの中国」を掲げ幾度かの台湾海峡危機が起こり、アメリカが台湾側を軍事支援した事でその目論見は実りませんでしたが、アメリカは台湾情勢を固定化するために「二つの中国」を模索していた時期もありました。

その後、中国代表権問題をめぐる「アルバニア決議」を経て国連常任理事国の地位は中華人民共和国に移ることになり、台湾中華民国政府は国連を脱退します。

アメリカや日本政府は中華人民共和国の「一つの中国」という主張を無条件に受け入れるのではなく「中国の主張は承知している」という立場で台湾と国交を断ちましたが民間レベルでの交流は継続されています。

中華人民共和国の国際的な存在感が増すにつれて台湾が国際的に孤立していく状況に危機感を持ちつつ中華民国総統を引き継いだ蒋経国は、就任当初こそ強権的な統治を続けていましたが、ベトナム戦争特需などで経済的に発展しつつあった台湾の民主化運動やアジア各国の民主化の流れなどを目の当たりにし、戒厳令を解除し民主台湾への移行を模索するような政策を打ち出し本省人を抜擢し、また台湾を近代的な国家へ飛躍すべく産業の近代化に乗り出し成果を出しました。

蒋経国に登用された本省人の李登輝は実務家として台湾国民党の政策を引き継ぐものと見らえていましたが、党内基盤を固めると期を見て憲法改革に乗り出し、総統直接民選や内乱罪の修正などで台湾の民主化の道を開きました。

人権派弁護士や民主台湾独立、或いは建国などの「党外」非合法運動で結党されていた民主進歩党(民進党)は政党結成が解禁となって合法化されましたが党内イデオロギー対立も表面化します。
その後、国民党と二期8年毎に政権交代を繰り返したことで「独立」を前面に打ち出すことはせずに現状維持で支持を集める方向転換をしています。

一方の国民党も馬英九政権時代のような対中融和政策は、特に香港の「一国二制度」が事実上反故にされ独立性が損なわれた事を目の当たりにしてからは中国に対する警戒感が高まったことで中国共産党との距離を保つ必要があると言う認識で徐々に方向転換しています。

九二共識(92年コンセンサス)

台湾中国間の交流機関として設立されていた海峡両岸関係協会(中国)と海峡交流基金会(台湾)が1992年、香港で会合した際、互いに「一つの中国」の解釈は台湾側が
「双方とも『一つの中国』を堅持しつつ、その解釈が異なる事を認める」

だったのに対し中国側は
「双方とも『一つの中国』を堅持する」

というものであったと伝えられています。
台湾側、特に民進党はこのコンセンサスの扱いに苦慮する事になります。

日本統治時代の評価

日本の台湾統治時代の評価を巡っても台湾の人の間ではその評価が分かれています。

台湾の治水事業に献身的に取り組んだ八田與一や、アメリカ軍との空中戦で撃墜されながらも村への墜落を避けるため郊外まで機体を操り戦死した日本人飛行兵を「飛虎将軍」として奉っている事が知られると日台友好のエピソードとして拡散されましたが、一方で中国国民党支持者や台湾民族派にとっての日本統治時代は「抗日闘争」や「民族運動」を想起させる負の歴史として捉えられています。

台湾の人が比較的日本統治時代を肯定している背景には台湾近代化の基礎が築かれた事もあったでしょうが、朝鮮半島などと比較すると当時は台湾人のアイデンティティと呼べるほど強烈な民族意識が確立されていなかった事や、その後にやってきた中国国民党の台湾軽視政策による生活苦や弾圧の苛烈さと比較すれば日本統治の方が良かったと評価しているという事もあるのかもしれません。

藍か緑か

台湾国民党のシンボルカラーが藍色である事に対比して民主進歩党を「緑」として揶揄する表現がありましたが、近年の政治活動では緑は独立派・建国派などのシンボルカラーとして定着しつつあるようです。

さらに近年は第三極の民衆党を「白」として支持政党のシンボルカラーで語られる状況も台湾政治ではよく見られる光景になりました。

しかし、これまで述べて来た経緯から民進党支持者であっても求めるところは様々であり、また国民党支持者についてもその思惑は一様ではない事が伺われるのではないかと思います。

おわりに

台湾の事は台湾人に聞くのが一番なのですが、世代によって見方に隔たりがあり当事者性を帯びると過去の評価はポジショントークになりがちな印象であったため、今回は比較的客観的に見ていると思われる日本人識者の分析から歴史的事実の列挙や概要を多く引用するように心がけています。

※登場する政権、政党名は時間軸に沿って、また識別しやすいように言い換えている箇所があります。

資料

・書籍
台湾のアイデンティティ 「中国」との相克の戦後史 家永 真幸

・web資料
台湾における中国国民党と中央民意代表機構の関係に関する一考察 松田  康博
https://core.ac.uk/download/pdf/145782081.pdf

「党外雑誌」読者から見た台湾の民主化 ――廖為民『我的党外青春』を読む家永 真幸
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kyoyobukiyo/47/0/47_71/_pdf/-char/ja

中華民国(台湾)における政治体制の移行:権力闘争と「統独」問題を中心にして 村上 和也
https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/22290/1/4_P303-332.pdf

【Views on China】台湾総統選挙と今後の日台中関係 諏訪 一幸


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