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贖罪の日と仮小屋の祭り

ユダヤの暦での初秋の月ティシュレイになると、イスラエルではその年の産物の収穫が終わり、人々は作物を賜って一年が締め括られる雰囲気が醸し出されるとのことです。(詩篇65)
このティシュレイ月の一日は「ヨム・テルア」と呼ばれ角笛の吹奏が行われる日です。(民数29:1)
神は律法に三つの祭りを定めていましたが、秋の空に響く角笛の吹奏の音には、定められた三番目の祭りが近付いていることを知らせる意味があり、これに先立つ春の『過ぎ越しと無酵母パンの祭り』、また初夏のペンテコステとも呼ばれる『週の祭り』にはない予告の印となっています

今日の熱心なユダヤ教徒はティシュレイの月の一日に入った時、つまり太陽暦では前日の夕方から精進潔斎を始め、十日の「ヨム・キプル」を終える夕方まで昼間に断食をして過ごす習慣があります。この夕方への拘りは、日没に日付が変わるユダヤの暦が陰暦であることに原因があります。

「ヨム・キプル」とは、つまり厳粛な『贖罪の日』であり、イスラエルが一年間に犯した罪の数々が赦しによって相殺されるという意味が律法で与えられていました。これが年毎の収穫の後に行われることから、「赦し」と「収穫」とを関連付ける神の意向がこの祭りに表されています。

律法によれば、秋のティシュレイ十日には大祭司は正装し、動物の血を携えて神殿の最も聖なる部屋に入り、まず自らを贖罪し、次いで祭司たちを贖罪し、最後に民全体を贖います。イスラエル全体の聖さは大祭司一人の役職が担うのでした。
(レヴィ16:17)
そうして贖罪の儀式が終わると、大祭司は神殿の庭に集まっている群衆の前に平服に着替えて現れ、焼燔の犠牲を捧げてイスラエル全体の一年の罪が贖われたことを告げ、神の名を唱えて民への祝福の言葉が告げられます。

こうして律法に従うことを願うイスラエルには、毎年に罪の赦しの日が設けられていることにより、犯した罪が赦されることにより、次の一年を新たな気持ちで出直す機会が与えられていたことになります。このように『贖罪の日』が存在していたことは、だれもが律法のすべてを守り通すことは出来なかったからであり、正直に認めるなら、誰にも赦されるべき罪が無いと言えません。もし『贖罪の日』が無かったら、イスラエルの罪は積もり積もってゆくばかりで、律法を諦めてしまったことでしょう。
やはり、人は善を行えても、やはり何かしらの悪を行わずには済みません。すべてのユダヤ人が律法を完全には守れないことを自覚するなら、謙虚にならざるを得なかったはずです。
ですから、律法について後のキリストの使徒ペテロは『先祖もわたしたちも負いきれなかったくびき』と呼んでいます。(使徒15:10)

では、神は初めから守れない掟であることを承知でイスラエルに律法を与えたのでしょうか。
この点を明らかにしたのはもうひとりの著名な使徒パウロであり、彼はこう述べます。
『では、律法とはいったい何か。律法とは違犯を明らかにするために付け加えられたもの』であるというのです。(ガラテア3:19)
またこうも言いました。
『律法は[神の]憤りを起こすものであり、律法のないところに違反もありません』。(ローマ4:15)

しかし、その違犯はユダヤ教徒に限るものではありません。
『すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。だがそれは、すべての口がふさがれ、全世界が神の裁きに服するためである』。(ローマ3:19)
つまり、律法とは、イスラエルをテストケースとし、それが彼らにも守られないことを通して、人間に『罪』からの『違犯』、アダム由来の倫理上の欠陥があることを明らかにしているというのです。

しかし律法は、その全てを守り通したひとりの人を生み出しました。それが処女から生まれ『アダムの罪』を持たなかったイエス・キリストであり、更に地上での死に至るまでの従順を通して、義に於いて『完全にされた』と新約聖書は述べ、また『自らを聖なるものとした』とも述べています。(ヘブライ2:10-11)
以後、キリストの倫理の完全性は、人類の罪の赦しの根拠として据えられています。復活したイエスを新約聖書が『大祭司』と呼ぶのは、まったく理に適っています。(ヘブライ3:1)

ですから、キリスト以外の人々が『罪』を正直に認めるべきことを教えるのが律法の働きであり、ユダヤ人であれば『律法を離れた義』、自分の善良さによって『義』を主張するという従来のユダヤ教を離れ、『罪の赦しをもたらす』神の手立てとしての『イエス・キリスト』の犠牲に信仰を持つことによって、個人の『違犯』がどれほど深く、また多くとも赦されることを希望できたのです。

これがキリスト教、『業によらず、信仰によって義をされる』ことを基本とする教えであり、ユダヤ教のパリサイ派が罪人を蔑視したのとは反対に、キリストの教えでは罪深いほどに赦しは大きくなるので「罪深き者、多くを愛す」と言える道理がそこにあります。(ルカ7:47)
人が自分の道徳性や敬虔さを誇ったところで、他の人からは褒められても、それが神の前に義を得ることにはなりません。その人の『義は人に対するもの』に過ぎないからです。それでは却って自分の『罪』を見失い、尊大に行動してしまうなら、それはまさしくキリストに最も反発したパリサイ派と同じことになってしまいます。(ヨブ35:8/ルカ18:11-14)

ですから、律法に定められた『贖罪の日』の赦しは、アダムからの罪がすべての人に生まれながらに有るため、律法をだれも完全には守ることの出来ない事実に人が気付くよう促しているものと言えます。なぜなら、神はメシアを通して人類にアダムからの罪の赦しを備えていたからであり、『贖罪の日』のイスラエルへの赦しは、将来に到来するキリストによる全人類への『罪の赦し』の予型でもありました。(ヘブライ9:25-26)
しかも、律法だけでなく旧約預言の数々によっても『贖罪の日』の儀式は、キリストによる赦しが人類世界全体に対して与えられることが予め示されていたのです。(イザヤ53:5/エレミヤ31:34/エゼキエル33:13/ヘブライ9:11-12)

この『贖罪の日』の祭礼が終わって五日目を迎えると、ティシュレイ月15日となり、収穫を祝う八日間の『仮小屋の祭り』が始まります。
天候に恵まれたこの季節、人々は律法に従って家の外に仮小屋を造っては、七日の間そこで飲食をして楽しみます。それはその年の収穫を祝うだけでなく、彼らが古代にエジプトの奴隷状態から解放され、約束の地であるパレスチナを目指した旅を続けた記念でもあります。
加えて、『仮小屋』は将来に『罪』を赦された人類が、エジプトに相当する『この世』の空しい隷属から解かれて、新たな新天地となる『神の王国』の支配する世界へと旅をする象徴でもあるのです。ですから、象徴的にみれば『仮小屋の祭り』はユダヤ人だけのものにはなりません。

その祭りで、ユダヤの人々は手に手にナツメヤシの葉(ルーラヴ)を持って、上下左右に揺り動かして賛美を示しますが、その様子は将来の出来事の暗示として、受難を前にしたイエスがロバに乗って王としてエルサレムに入られた時のように、終末を描く黙示録の中でも、王国の王なるキリストの王位継承を祝う場面で、ナツメヤシの葉を振る数々の人々の幻に投影されています。(黙示録7:9-17)
その人々に相当するのは、この世の終わりを通過する人々であり、数えきれないほどの大群衆となると書かれているのです。

ゼカリヤの預言では、この世の悪が過ぎ去った後に、イスラエルを攻めた諸国民でさえもがこの『仮小屋の祭り』を祝うべき時が来ることを予告しています。(ゼカリヤ14:16-20)
そこでは、たとえ終わりの日の裁きで神に反抗した人であってもなお、悔いるなら赦される可能性が予示され、それは荒野のイスラエルが毒蛇に咬まれた時に、磔刑にされた銅の蛇を見上げると命を長らえたところに共通することをイエスは暗示して語られました。(民数21:9/ヨハネ3:14)

こうしてイスラエルが『祭司の王国、聖なる国民』となるという、律法を与えられた本来の目的は、キリストの『新しい契約』に入った血統によらない『神のイスラエル』によって果たされるために、まずその人々が集められることになります。(出エジプト19:6)
それは、真の『アブラハムの裔』によって『地のすべての民の祝福となる』ということが、人類を贖罪する『王なる祭司』の民としての真のイスラエルにより、創世記で示されたイサク、ヤコブと相続された神の約束の成就となるのです。(創世記18:18)
そしてアブラハムの子孫イスラエルからイエス・キリストが現れ、唯一人律法を通して義を得て、すべての人の罪の赦しの基礎を据えました。

またイエス・キリストは天界の大祭司となり、『贖罪の日』の大祭司が自分と同族祭司の贖罪の儀式を行い、それから民全体の贖罪を行ったように、キリストはまず、自ら犠牲を捧げて大祭司の任を受けると、次いで神殿で仕える従属の祭司らに相当する『聖なる者ら』を聖霊によって生み出します。
これがあのペンテコステの日に聖霊注がれ始めた人々であり、『水と霊から』アブラハムの裔として生み出されたのです。

ですから、キリストは『アブラハムの裔』となる人々を集め出すためにパレスチナの中で宣教を始めました。血統上のアブラハムの子孫にまず相続の権利があったからです。(使徒13:46)
つまり、『アブラハムの裔』がキリストを通し生み出されないなら、人類への贖罪も、この世の空しい生涯からの解放も無く、将来の出エジプトも起こらないことになるのです。この『アブラハムの裔』となる権限は、まず血統上のイスラエル人に差し伸べられるのが道理です。そこでイエスの奇跡の業は約束の地に住むユダヤ人の中から『集める』ことを目的としてのであり、奇跡を行う聖霊を認める者は、その集める業を共に行っていたことになりますが、それを認めず、イエスは悪霊の親玉によって奇跡を行っていると言い張る者らは『散らして』いたのです。それこそは神の目的を妨げる悪行であり、確信犯であるので、赦されることの無い罪を犯していたのです。(マルコ3:28-29/ルカ11:23)

しかし、信仰の視界のぼやけたユダヤ人からは十分な数の『聖なる者』が集まらず、却ってユダヤ体制はイエスを退けて処刑させてしまいました。
そこで使徒らを初めとする弟子たちは、パレスチナを後にして諸国民からも『アブラハムの裔』を『接ぎ木』のようにして集め始めます。それは復活後のイエスが『行って、あらゆる国の人々を弟子として教えよ』と命じられていたことでした。(ローマ11:17/マタイ28:19)

こうして大祭司キリストの許に必要な数の祭司が使徒たちの宣教によって集められ、彼らがキリストを隅の親石として天の神殿を構成する石の数々となることによって、人類全体に罪の赦しの贖罪をもたらす体制が整うことになります。つまり、キリストと使徒たちの伝道は、ただ信者を得ることを超えた『アブラハムの裔』を集める目的あってのことだったのです。そして、この集める業は終わっていないことを旧約の預言が教えています。それはなお、不定の将来に再開されることでしょう。その時はだれも、キリストさえ知ることができず、神のみが定めることになるとイエスは言われます。
(ダニエル9:27/マルコ13:35-36)

その時には、再び聖霊を注がれる者らが生み出され、彼らは諸国の為政者らの前に引き出されて聖霊によって語り、その言葉に世界は驚嘆して『激震』を経験することになり、人々は二つに分けられることをイエスは予告されました。(ルカ21:12-15/ハガイ2:6-7/マタイ25:31)
これらのアブラハムの裔が天のキリストの許に集められると、天の王国が機能を始め、人類に新たな世界をもたらし、そこで『嘆きも苦しみもなく、すべての涙が拭われる』時を迎えることになるのであり、それは信仰抱いたあらゆる人々を、大祭司キリストと従属祭司となる聖霊注がれた聖なる者らによる贖罪が行われる時を迎える、喜びの収穫の祭りとなることでしょう。その収穫物とは『罪』を認めてキリストの贖いに信仰を働かせた人々であり、旧約の預言者ハガイは、その人々を『諸国からの宝』と呼んでいます。つまり謙虚に悔い改めた人々を言うのでしょう。
ですから人類全体を赦す『天の王国』を、信者だけが救われる「天国」と混同するのは動機が正反対であり大いに間違っています。イエスは罪人や弱者に寄り添ったのであり、自分が神に是認されているなどと思う輩の友ではなかったのです。

重要なことは、人は自分に宿る『アダムからの罪』を認め、キリスト以外に律法を守り切ることができた者が無かったこと、それため義の完全に到達されたキリストを用いて、神が人々の罪を赦そうとしていらっしゃることを一重に信じることです。キリストは同胞となる聖霊で生み出された『神のイスラエル』の人々を集めた後に、彼らの言葉に信仰を働かせる人々を集め出すことになりますが、最終的には天と地の双方の民を一つに結び付けることが神の目的であり、それはキリストの完全な義の中にすべての者が赦されることを意味します。(ヨハネ17:20-21/エフェソス1:10)

人類の罪、それは世相を見ればまったく存在が明らかなことで、わたしたちは自らに宿る罪に苦しみ、戦争はおろか犯罪も搾取もいじめも無くすことができません。人は基本的に利己的であって『常に善を行って悪を行わない者などひとりもいない』という聖書の言葉はまったく真実で、律法は年毎の『贖罪の日』を通して、アダムの子孫であれば誰も倫理的に完全な者にはなれないことを教えてきました。(コヘレト7:20)

ですから、創世記から始まり、律法契約を経てキリストの新しい契約を通して、人類の贖罪を行わせるためのイエス・キリストという『アブラハムの裔』を登場させるために行動し、悠久の時にわたって導いて来られた神の偉大な善意を信じ、その価値を『値高い真珠』のように見做すべきなのです。



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