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ヨハン・ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(遊ぶ人)にて

今回の記事は、本書の前半、第一章から第六章に触れます。

 人間社会に固有で偉大な活動にはすべてはじめから遊びが織り込まれている。言葉を取り上げてみよう。言葉は通知したり、教えたり、命令したりすることのできるよう人間自身が作り出した最初にして最高の道具である。言葉こそ、人間が判別し、規定し、確認し、簡単に言えば名ざすのに使うもので、言いかえれば物事を精神の領域に高めるのだ。言葉を創造する精神はまさに遊びながら次々と素材的なものから思考されたものへと飛躍する。抽象的表現の背後に必ず象徴的言葉があり、象徴的言葉の中に言葉の遊びがあるのだ。かくて人間は物事を表現するたびに、自然界と並んだ第二の仮構の世界を創造する。あるいは神話をとってみてもよい。これも同じように実在するものの想像力による形象化だ。ただし一個の言葉よりずっと手がこんでいる。すなわち、神話をとおして昔の人はこの世のできごとを説き明かそうとした。そして神に属することに基づいて人間界のことを秩序づけた。神話がこの世のことを飾るのに用いた気まぐれな想像のイメージの中で創作の才能を持つ精神は冗談と真面目の境目で遊んでいる。最後に祭礼儀式を取り上げてみよう。昔の共同体は世界救済の保証に役立つような聖なる行事、つまり、潔め、犠牲、秘儀などを、言葉の最も直接的な意味において純粋な遊びの中で行った。神話や祭礼儀式の中に文化生活の偉大な活動、たとえば、法と秩序、商業と利益、技術と芸術、詩、知識と学問などの真の起源がある。しかも、これらすべてはまた同時に遊びの世界に根を張っている。

――pp.21-22 第一章「文化現象としての遊びの性格と意味」

私たちが遊びたいと思うときは、時空を超えて、五次元意識を取り戻して、別の時空に飛び込みたいと考えます。また、同じ時空に飛び込むにしても、五次元意識から時空を俯瞰しているので、新たな視点を持ち込めます。

 あらゆる競技のはじめに遊び(第三章)がある。それは空間的、時間的な枠の中で、一定の約束に従いながら、定められたとおりの形式で緊張を解きほぐしたり、あるいは、日常生活の歩みとは全く別世界のことを遂行したりするための一種の協定である。何が遂行さるべきかとか、何がその際得られるかは、遊びの目的からみれば第二義的な問題だ。
 競争の習慣やそれに付与された意味を特徴づけるのは、あらゆる文化に共通した驚くべき同一形式性である。このほとんど完全に近い同一形式性こそ、いかにすべての遊び=闘技的活動が人間の精神生活および社会生活の最も深い基盤に根を張っているかをよく示している。
 おそらくすでに扱った法律(第四章)および戦争(第五章)の分野よりもさらにはっきりと原始古代的アルカイック文化の同一形式性が示されるのは、知識と知恵の競争からだ。大昔の人にとって何かを可能にしたり、敢行したりすることは力を意味したが、何かを知ることは魔力を意味した。結局、彼にとって個々の一つ一つの知識が神聖なものであり、秘密の魔力に満ちていた。なぜなら彼にとって本来、知識とはすべて世界秩序に直接つながるものだからだ。

――pp.186-187 第六章「遊びと知識」

五次元意識のことを神聖な遊び心と言い換えても良いのではないか。

以上、言語学的制約から自由になるために。

なお、ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』では、遊びを「競争」「偶然」「模擬」「眩暈」の四つに分類していますが、ホイジンガさんの「競争」は、他の三つと同じ哲学的平面にはありません。