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福島真人『学習の生態学』を読む

エキスパートの暗黙知を新参者に教授するには、何をどうすれば良いのか。そもそも、エキスパート自身も意識していない暗黙知を、言葉で表現できるのか。新参者にしても、その言語能力を支える暗黙知は、一体・・・。

例えばチョムスキーによる文法研究は、まさに我々が暗黙のうちに行使している、文法構造に関わる知識を探る事をその目的としてきた。我々は文法的な文と非文法的な文の違いを瞬時に判断、区別でき、また無限に複雑な文を生産する事ができる。こうした能力を、ある形式的なパターン(変形生成文法)として記述できるとしたチョムスキーの研究なども、まさに暗黙知の形式的記述の試みであるといえるのである。

――p.41

この著者は、既存の教授法に従うだけの新参者ではありません。

筆者が調査をした看護の現場では、リアリティ・ショックという言葉があり、現場では結構深刻な問題になっているが、これはいわば今まで比較的ぬるま湯的な学校教育によって保護されてきた新人たちが、突然医療現場の前線に駆り出され、そのギャップで燃え尽きてしまう現象を示している。まさにリアルな状況が、お膳立てされた学校教育ではカバーできない様々な問題をいきなり、しかも息つく暇もなく突きつけてくるために、新人たちがみるみる燃え尽きてしまうのである。

――p.198

主な教授法は、学校制と、現場とともにある徒弟制ですが・・・。

徒弟制的な学習をモデルにした理論では、その対象とする領域の周辺に、ある種のセーフティゾーンのようなものがあることを前提としている。アフリカの仕立屋で見いだされたのは、フルの活動(十全的な参加と呼ばれる)の周囲に、基礎的な実践(たとえば布の型取りのような)を行いつつ、そこで失敗してもそれが大目にみられ、失敗によって生じる様々なコストに関して、追求されないような、そうした空間があるという点である。そこに初心者として参加し、徐々に学習していく過程が、周辺参加と呼ばれたのだが、これはこの空間をより理論的な形に拡張したものである。

――pp.199-200

彼は、暗黙知の教授法を、社会科学者の立場から、探究しています。

そしてこうした実験的領域を成立させるための最も重要な要件と筆者が考えるのが、試行と失敗の結果に対する免責の構造である。実験的試行には様々な失敗が伴い、それは社会的、道義的、更には法的責任を生成しかねない。仕立屋は布を台無しにし、理髪師は客の髪を切りすぎてデコボコにし、医師は処方を間違えたり、血管を傷つけたりする。こうした失敗は状況に応じては人命に関わる場合もある訳だが、その失敗が重要な学習のための資源となるとすれば、それに関わる法的な責任を免除して、その失敗そのものを学習資源として十分に活用しなければならない。

――p.216

学校制で習う英語(第二言語)“This is a pen.” と、
徒弟制で習う日本語(母国語)のあいだに、
暗黙知を将来する言語社会の基礎があるということか?

以上、言語学的制約から自由になるために。