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家賃9,900円、東京暮らし


 東京暮らしはちょっと盛った。東京都との境界、もとい荒川から15キロほど北上したところに住んでいる、その辺の草とか食ってそうな県民です。

 家賃9,900円は本当の話。なんなら数年前に値上がりするまでは8,000円台だった。吸血鬼退治人か?
 なんでこう破格かというと、会社の社宅だからだ。フローリングの八畳一間、何の変哲もない一人用の住居である。

 とはいえ、どこの社宅をあてがわれるかは完全にガチャであり、場合によってはバランス釜付きのコンクリ打ちっぱなしの風呂だったり、なんなら風呂トイレすら住人と共用のところだってある。私はそこそこの地位の人が単身赴任していた部屋、社宅平均ではSRくらいの部屋が空くタイミングで運良くそこへ滑り込ませてもらい、人生で初めてお風呂が自動で沸く生活を手に入れたのである。何あれ、すごい……。

 というわけで、と言っていいのかわからないけれど、私はあまり家というものに執着がない。転勤の多い職種というのもあるし、何より今までマイホームというものを経験したことがない。小さい頃に住んでいたネズミが走り回り台風で壁が抜ける平屋なんて、ひとり暮らしを始めたときの単身用マンションより家賃が安かった。狭狭しい空間に家族全員が押し込まれ、プライバシーなど皆無だった。ちなみにエロ本は学習机の一番上の引き出しの天板の下か四番目の奥側に仕舞っていたタイプの人間です。


 多感な時期を家族と密接した状態で過ごし、若い頃は他人との距離感がバグっていた自覚がある。実家から出て、私にとって自分の家というのは他人と一緒にいなくてよいことが保証された領域となった。旅行という非日常的なものなどであればまだしも、人が自分の家に長時間存在すること、自分が他人の家に長時間滞在することは今でもちょっと苦手だと思う。

 そういった距離感云々が原因かどうかは不明だが、うちのきょうだいは揃って友人が少ない。
(ほとんどいないんじゃないか?と思ったけど、流石に少ないという規模に留めておくことにします。)


 趣味も特技も顔も背格好も似ていないきょうだいで、さして仲が良くもないけれど、友人が少ないという点は数少ない共通点である。恐らく距離を図りかねてうまく馴染めないか、距離の取り方を間違えて疲れて疎遠になるパターン。ちなみに私や他のきょうだいが実家を出てからは、距離が生まれたせいかきょうだい関係は多少良くなっている、気がする。多分。兄からの贈り物が小四の頃に貰ったメントスで止まっていようが、一応仲良しと言えるはずだ、多分。きょうだいすらこんな調子なのだから、いわんや他人をや………。


 もう一つある共通点は、全員が共通して同じ本を持っていたこと。

 谷川俊太郎の「二十億光年の孤独」である。

 全員がそこそこの本読みではあるが、好みのジャンルがバラバラなので、なぜこの本を、どのタイミングで各々が手にしていたのかはわからない。ていうか正直めっちゃキモいと思った。全員「え、キモ…何で持ってんの…」みたいな空気になった。

 私は単に教科書で詩を読んだことある有名な人の本で、ブックオフで見かけてタイトルがめちゃくちゃ気になって買ったから。そう、これは前回に引き続き、ブックオフで買った本の話です。前置き長っ!


人類は小さな球の上で
眠り起きそして働き
ときどき火星に仲間を欲しがったりする

火星人は小さな球の上で
何をしてるか 僕は知らない
(或いは ネリリし キルルし ハララしているか)

しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
それはまったくたしかなことだ

万有引力とは
ひき合う孤独の力である

宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う

宇宙はどんどん膨らんでゆく
それ故みんなは不安である

二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした
谷川俊太郎『二十億光年の孤独』


 孤独を感じることってすごく変なことだ。人間は変な生きものだなぁと思う。家族恋人友人同僚、寂しさの最小単位は埋められても、人類という最大単位のもう片方は何万年経ってもなかなか埋まらない。今この瞬間も広がり続けるクソでかい空間に砂粒のようにぽつんと浮いた地球に生きるのは、なんだかとても寂しいような気がしてしまう。宇宙のことを考えると途方もなく途方に暮れちゃうの、変じゃないか?その地球にはこんなに人がいるのに。

 東京に来て中央線に乗ったとき、思わずこの詩が頭に浮かんだ。郊外へ続く長い高架線、その両側には地平の端まで家が並んでいて、その膨大な窓それぞれに暮らしがあって、全員が自分のことを主人公だと思って生きている。凄い!こんなに人がいるのに孤独だ……!と思った記憶がある。あいたたたた…。

人々の祈りの部分がもっとつよくあるように
人々が地球のさびしさをもっとひしひし感じるように
ねむりのまえに僕は祈ろう

(ところはすべて地球上の一点だし
みんなはすべて人間のひとり)
さびしさをたえて僕は祈ろう
谷川俊太郎『祈り』

 通信技術の発達によって、人々の脳内における「世界」の規模が実体を伴って爆発的に広がってしまってから、人間は人や社会や宇宙そのものにある本質的な孤独を、より身近に感じるようになった(推定)。世界の広さを知り、広大な空間に一人放り出されたような気持ちになっただろう(推定)。全て自分の推測なので何とも言えないけど、少なくとも自分はそういう理由で、幼い頃からラジオ、そしてインターネットにのめり込んだ。あの狭い3Kの空間にはめ込まれた家族というピースから外れ、膨大な言葉が飛び交うところにいる時間がとても楽しかったんだと思う。

 東京に出てきた時も、同じことを思った。


 他のきょうだい達も、きっとどこかで私のようなことを思い、あの本を手に取ったんじゃないだろうか。



 これを書くにあたってこの本のこと調べたけど、谷川俊太郎が21歳の頃に出版されたものなんですね。終戦から7年、日本がやっと主権を回復した1952年に刊行されたらしいです。インターネットすらない(であろう)時代、人間や世界や地球や宇宙に根ざす孤独をこんな風に詩に昇華できるの、すごいな…。

 最後にくしゃみという生活感溢れるワードで急に現実に引き戻されるところも好き。宇宙の片隅でくしゃみ、ハロプロみがあるワードだな…(隙あらばハロプロ語り)


 書きたいことがめちゃくちゃ取っ散らかってきたので、今日はこの辺で。

 ごちゃごちゃ書いて来たけど、ひとり暮らしも板に付き、距離の取り方もだんだん心得てきて、こんなめんどくさ人間とテキトーに付き合ってくれる人々にも恵まれ、毎日楽しく暮らしています。(ちなみに谷川俊太郎の「ひとり暮らし」もめちゃくちゃ良いぞ!!)

 というわけで、次年度の異動発表まであと数週間なので、東京に来た頃の話を書きました。来年度は残留か、それともどこかに引っ越しになるかな〜?楽しみです。


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