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「自分の一部になる」ということ。

こんにちは。


私はたまに、どこまでが「私」なんだろう、と思うことがあります。

よく着る服、毎日使う文房具、お箸、お気に入りの雑貨…
私の周りにはたくさんの大切な物があるけど、果たしてそれらを「私の"一部"」と呼んでもいいんでしょうか。

そう呼んでも別に違和感はないけど、やっぱりそれらはあくまで「」でしかなくて。神経が通っているわけではないから、傷つけたとしても肉体的な痛みは感じません。

だけど、私は自分の持ち物のことを平然と「私のもの」と言うし、もしそれを他人に奪われたら、心の一部が抜け落ちたみたいに感じるだろうと思います。

「私」は一体、どこまで広がっているんでしょうか。この肉体?私にとって大切なもの?それとも、私が関わるすべてのものまで?


人間同士でもたまに、「あなたは私の一部だよ」と言うことがありますよね。その時、
「イヤイヤ、私とあなたは個としてバラバラなんだから、どっちかがどっちかの"一部"なんてことはあり得ないでしょ(笑)」
なんて言う人はおそらくいません。
「そんなに私(僕)のことを大切に思ってくれているんだね、ありがとう」
と思うだろうし、自分がその人の一部であることに、満ち足りた気持ちになることと思います。

だけど、母親が自分の子供に「あなたは私の一部だ」というのは分かるとして、他人同士がそう言うのは、よく考えたらやっぱりちょっと変ですよね。


「一部」って、何なんだろう。
一人の人間が「これは自分の一部だ」って思えるものの幅って、どれくらい広いんだろう。


人はどこまでを自分の一部として受け入れられるのか。
このことを考えながら色んなものを見ていくと、色々と面白いことを発見できます。


例えば、ご飯を食べているとき。
当然、口に食べ物を入れて、もぐもぐと噛みますよね。そしてそれをゴクンと飲み込む。
ですが、もし飲み込む寸前で口から吐き出したとしたら、もう一度それを食べられますか?

おそらく、ほとんどの人が「気持ち悪い」と思うと思います。
不思議ですよね、ほんのさっきまで口に入れていたものなのに。吐き出さなかったとしたら、そのまま飲み込んでいたはずなのに。
一度外部に出てしまうと、もうそれを受け入れることはできなくなってしまう。


不慮の事故などで手足を失ったとき、義手や義足を付けることがありますよね。
どこかで聞いた話によると、長い間義手や義足をはめていると、それで触れたものの感触をダイレクトに感じたり、さらには指先に痛みを覚えたりすることがあるそうです。
それらは本物の手足じゃないのにそういった感覚を覚えるなんて、不思議ですよね。

自分と外部の境界ってすごく曖昧なんだなぁと思う、今日この頃です。


実際私は、「外部」に手を伸ばすことによって「自分」の幅をどんどん拡大できると思って行動している面があるかもしれません。
小難しい本を棚に並べて賢くなった気になったり、趣味のいい香水を並べていい女になった気になったり。(並べてばっかりか)

もっと分かりやすい例で言うと、
「ブランド品を身につけて、リッチな気分になる」
「参考書を買って、頭に入った気になる」
とかもそうですかね。

持ち物、友達、恋人などがその人自身を表す、とはよく言いますが、そういうのでしか他人はその人を判断できないのかもしれません。


やっぱり、自分自身と外部のつながりって、ぽやぽやしてるんだなぁ。



ここまで読んでくださった方に、飯テロのプレゼント。(揚げたてポティト)
これから文字通り私の一部になります。
メリークリスマス✨

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