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文の構造/書くコツというのは存在するか

良い文章とはどういうものかと聞かれると、それに答えるのはなかなか難しい。小説、エッセイ、散文、詩、説明要約文、ニュース記事など、世の中には様々な文が書かれてきた。

ふと手元にある本を見ると、来週までに読まなきゃいけねぇなという必要に迫られるもの、それから何となく面白くて、ついつい続きが気になって没頭して読んでしまうものがあるということに気付いた。「読まされる文」と能動的に「読みたくなる文」だ。

文章を書く技術を向上させたいという動機は無いけれど、書き手から熱が伝わってきて、心が動いてしまうような文というのは憧れる。

ちなみに私は文章を書くということに関して、一切技術的なことを誰かから習ったことも無ければ、練習をしたことも無い。速い乗り物とPCや家電が好きなので、昔は新幹線や飛行機の設計に携わる仕事か、エンジニアになりたいと思っていたし、実際になる気で理系を選択していた。文系や文学の「ぶ」の字の要素は一ミリも無かったのだった。

高校の国語の教科書といえば、芥川の「羅生門」や梶井基次郎の「檸檬」などが出てくるだろう。あれらを頑張って精読しようとしても、その当時全く何が書かれているか分からなかったし、先生の解説を受けてもいまいちピンと来ない駄目な生徒だった。それが何でか、思い立って一記事一息で6500字書いたり、人への手紙に400字詰めの原稿用紙で3枚も書くようになってしまったのかはうまく説明できない。

有難いことにこんな文章を読んでくれている、それも楽しみにしてくれているという読者が声をかけてくれた。画像も無ければ、見出しも少ない。淡々と続くこの5000字超えの文を”なぜ、読んでくれているのか?”と聞いてみた。

何か奥深かくて物語があるからと読者は言った。

なるほど。奥深さというのはひとつ重要なことかもなと思った。

「例えばほら、旅行なんかに行ったりするだろ、どこが見所で何がおいしくてといった観光ガイド的、説明的な文章も書けるんだけど、そういうのはどう?」と興味心から聞いてみた。

「そんなん自分は読みたくないんですよ!tomoさんがそんなの書き始めたら読むのやめます!」と返り討ちに合うようなコメントをもらった。

まあ確かにその人にしか書けない文章でないと意味が無いし、個人的な書き物の場合は少しでも良いからその文の奥行きが見える予感がしないと読む土俵にすらあげてもらえない。それは確かにフェアな判断で、至極まっとうなことのように思えた。

奥行きが見える(?)文を書くという行為について整理してみる。

・自分が何かを体験をする
・体験したということによって心が動き、流れが身体に起こる
・流れのエネルギーを利用して筆を走らせる

書いていて、なんなんだこれはとも思ったが、このような文を書いている状態の時を表すとこうしか出てこなかった。書式も無ければフォーマットも無い。文の構成もあらかじめ決めたことが無ければ、結末も決めていない。

例えば文章を上手くなりたい!と思って本屋さんに行き、その手のカテゴリの本を買って沢山読んだとすると、技術が向上して読みやすい文にはなるかもしれない。でも、続きが読みたくなるような面白い文や小説、人の心を動かすものに全員がなるかというとそうはならない。

今、ある学者・研究者が書いた珈琲に関する本を今読んでいるのだが、非常に1ページが重く、続きを読む気にならない。研究者なので相当量の知識を持っているのだ、そして論文も沢山書いているはずなので、文章と疎遠な訳ではないだろう。しかし、どうも読む気にならないのだ。一文一文が締め付けの塊で、物語りも遊びも感じられないものだった。根本的に技術がその人の表現力にを支えるわけでは無さそうということを感じた。

さて、ここでなぜ詩人には詩が書けて、私も含めた大半の人が詩をうまく創作できないのかということを考えてみる。詩人と呼ばれる人も生活自体は一般的な人と大きく違わないはずだ。でも、おそらく普通の人と比べて、確実なのは根本的に見えている世界の情報量のケタが違う。その膨大な「見えているもの」や「体験」があって、仕方なく、それを言葉に何とか凝縮して収めているように見える。

芸術家として活動する方々もそうだ。見えている世界や体験のエネルギーをどうしようもなく、キャンバスにぶつけていたり、作品を産み出している。だから芸術作品やアートには実用的な機能はなく、ただ世界の真実の一部を体験した人を通じて突き出してきたり、問いを投げかけることが多い。

ガソリンや電気がなければ車は動かないのと同じように、表現をする元となる燃料が無ければペンは走らない。燃料とは体験そのものであった。

リルケは「問いを生きてください」といった

昨年の秋だったか、新幹線の中で読んでいた文学とはほぼ関係の無い本の中で、突然詩人の言葉が目の前に現れた。

「ライナー・マリア・リルケ」のことはその時に初めて知ったのだが、オーストリアの詩人・作家である。リルケの「若き詩人への手紙 若き女性への手紙」という作品は、リルケが彼のファンとの文通したものの一部をまとめたものである。悩みが多い詩人の男性や女性に対して手紙を書いてる。詩を創作する天才があえて普通の文体で人をいたわって、その言葉の端々に励ましのエネルギーが見える。とても温かく奥が深い作品なのだ。

一番目に飛び込んできたのは「あなたは今問いを生きてください」というメッセージ。

普通の人であれば自らの生き方を問いながら生きてください、とでも表現するだろうか。リルケはそこから一段と高いところから言葉を突き刺してきた。あまりに新鮮だったので後日著書を買って読むと、こんなことが書かれていた。

「自ら全て体験したことを終えていないのだから、今答えを与えられることは無いのです。しかし、全てを生きるということこそ大切なのです。あなたは今問いを生きてください。」

すげぇことを言う人がいるんだなと思った。これはいつの作品だ。1904年!?というと今から約100年前か。こんなことを人へ励ましのメッセージとして、言葉で伝えていた人が存在していたのかよ、と衝撃が走った。しかもリルケ自身は身体を悪くしており、出版した詩集が売れなくて生活もかなり大変だったと書いてある。ファンに向けて自分の出版した詩集を献本してあげたい、しかし、当時は出版したら版権は出版社になってしまうので献本ができない。自費で買って送るお金も無いほど生活に苦労していたので、仕方なく最新の詩集リストのみを送るから、買ってくれると嬉しいです、なんてことが書かれている。

今の時代よりも相当生活に困窮していた状態で、一体どうしてそのような励ましができるのか、ただただ驚いていた。その感触を何とか自分周りの人に伝えたくて、話の分かる友人にひたすら電話をかけて「リルケっていうすごいヤツがいる。いや、正確には100年前に存在していた。極めて難解なんだけど、励まされる。訳がわからない。幼年について、孤独について、恋愛について、つまるところ全ての悩みについての励ましが込められている。すげぇから読んでみてよ。」とホースから水が溢れるような勢いで伝えていった。

100年前とはいえ、リルケの励ましを体験してしまったからには、自分の内のみに秘めておくのはもったいなさ過ぎる、そう思ったのだった。

リルケ自身は他人宛へ送った手紙が全く違う時代の、全くの異国で、全く関わりの無い人にこのような形で受け取られるとは想像していなかっただろう。しかし、それを体験してしまったことの事実は変わりようがなかった。

ある夜のこと、電話で話をした友人がこう言った。「うわぁ...君は生きているぇ...。私ね、小説や本が好きだから自分で読むことも多いんけど、そんなに心打たれて読んで無かったよ。うん、生きている人がここにいる。ありがとう。」

彼女から出た「生きているねぇ。」がとても遠くまで木霊していた。


今さらの文学体験

それから数ヶ月、狂ったように、暇さえ見つけては、日本文学に足を突っ込んで読む生活が始まった。リルケはオーストリア人であるが、日本にもそのくらい尖った人はいないものか、と探していった。そして萩原朔太郎という人を知った。詩人だ。「風立ちぬ」の堀辰雄や「檸檬」の梶井基次郎が門下生としていた大先生だ。詩人でありながら、エッセイ、散文の書き出しや説明も絶妙にうまい。

以下は「月に吠える」という作品の序文から引用する。

***

詩とは感情の神経を掴んだものである。生きて働く心理学である。

私の詩の読者にのぞむ所は、詩の表面に表はれた概念や「ことがら」ではなくして、内部の核心である感情そのものに感触してもらひたいことである。私の心の「かなしみ」「よろこび」「さびしみ」「おそれ」その他言葉や文章では言ひ現はしがたい複雑した特種の感情を、私は自分の詩のリズムによつて表現する。併しリズムは説明ではない。リズムは以心伝心である。そのリズムを無言で感知することの出来る人とのみ、私は手をとつて語り合ふことができる。
***

青空文庫という無料電子図書館にて著作権が失われた作品が有志の手によってアップされている。いつでも見ることができる。

リズムと音楽性だ。そういえば、昔どこかで文章には音楽性が必要なんだと言っていた人のことを思い出した。確かに、面白い文というのは大抵何かの音楽性にあふれている。意味に注目するだけでなく、リズムを汲み取って読んでいくという発想が今の今まで無かったな、それを知っていたら苦痛な現代文の授業も少し変わったのかな、なんて思った。

夏目漱石の作品というと「坊っちゃん」や「草枕」、「吾輩は猫である」があまりにも有名だが、とても面白い作品は他にも数多く存在する。漱石自身が昔、寄席が好きで聞きに通っていた時代もあり、落語のようなリズムの良い文体で書かれた作品も存在する。

京都が舞台の「京に着ける夕」という作品が私は好きだ。実際に声に出して音読するとよりハッキリ分かるが、リズム感の塊で、どんどん先へ先へと導かれるように読んでいってしまう。

以下は「京に着ける夕」から引用する。

***

たださえ京は淋さびしい所である。原に真葛まくず、川に加茂かも、山に比叡ひえと愛宕あたごと鞍馬くらま、ことごとく昔のままの原と川と山である。昔のままの原と川と山の間にある、一条、二条、三条をつくして、九条に至っても十条に至っても、皆昔のままである。数えて百条に至り、生きて千年に至るとも京は依然として淋しかろう。この淋しい京を、春寒はるさむの宵よいに、とく走る汽車から会釈えしゃくなく振り落された余は、淋しいながら、寒いながら通らねばならぬ。南から北へ――町が尽きて、家が尽きて、灯ひが尽きる北の果はてまで通らねばならぬ。

「遠いよ」と主人が後うしろから云う。「遠いぜ」と居士こじが前から云う。余は中の車に乗って顫ふるえている。

〜中略〜

桓武天皇の御宇ぎょうに、ぜんざいが軒下に赤く染め抜かれていたかは、わかりやすからぬ歴史上の疑問である。しかし赤いぜんざいと京都とはとうてい離されない。離されない以上は千年の歴史を有する京都に千年の歴史を有するぜんざいが無くてはならぬ。

ぜんざいは京都で、京都はぜんざいであるとは余が当時に受けた第一印象でまた最後の印象である。子規は死んだ。余はいまだに、ぜんざいを食った事がない。実はぜんざいの何物たるかをさえ弁わきまえぬ。

***

読めば分かる通り、テンポ良く京都が通過していく。そして漱石はぜんざいを食ったことがない、無いのだが文学上の「ぜんざい」が書ける。本当の天才というのはこのように、言葉上だけで遊び、言葉上で体験を与えられる人のことを言うのだった。

「京に着ける夕」を読み終えた時の私は奇妙なぜんざい体験が身体に残った。一日中「うあぁぁぁ...。ぜんざいが。ぜんざいが...。」と何とも言葉にならない奇妙な感覚がしばらく抜けず、漱石このやろうと思った。

話は逸れるが、子規とはあの歌人の正岡子規であり、漱石とは親しい関係だった。それがぜんざいの話の間にさらりと「子規は死んだ。」と何事もないかのように挟み込んでいくる。さすがに天才ともなるともなると表現技法も恐ろしい。例えるなら戦闘において、ありえない位置から攻撃して来た、というような言葉を挟みこんでくる。それはもう変態的ですらある。

そんな人の作品を今までなぜ手に取らなかったのか、この年になってもったいないことをして来たなぁと思った。しかし、言葉で遊び、心を揺さぶるものというのはその分衝撃も大きい。技術書やビジネス書は自分にとって必要な部分のみ取り出して省エネモードで読むことができるが、文学や小説はそうはいかせてくれない。

体験する側も自分を尽くさなくてはいけない。

音楽、それもフルのオーケストラを聞いていくようなものだなと感じた。ショートカットができないので最初から最後までしっかり聞いて、消化しながら進んでいくしかないので、時々何もかも空っぽになってぶっ倒れる時がある。

日本文学の頂点、最高峰といえばたとえばノーベル文学賞を受賞した川端康成があげられる。これも一度は見なくてはもったいない、そんな動機で手に取った小説が650ページ。噛みごたえがありすぎる。やばいなと直感したが、必要なタイミングで読まないともう縁が無いかもしれない。行くしかないな、そんな形で踏み込んでいった。

恐ろしいかな、500ページを過ぎた辺りで持久戦というか、泥試合に近いような感覚になってくる。この小説を読みきるか、途中でノックアウトするかはもう体力次第。残りが150ページだが、その150ページが重いストレートを浴びるようにしんどい。というかまったく試合が終わる気配が無い。意識を保ったまま体験を経て自分が立っていられるか、途中でやられて敗退するのか、わからない状態だった。

最後の景色は何としてでも見たいという意地が体験を走らせる。そうして読み終えた後の読書体験というのは、あたかも小説の中に自分がいたかのような感覚が生々しく残るものである。

川端康成の文章は最後どうしようもなく表現できなくなってぶわっとすべてを空中に投げ捨てる節がある。文学にオチは無く、現代のミステリー小説と比べると、例えるならばハリウッド映画と古典映画ぐらいの温度差はあるが、そういう音楽なんだなと思って聞くと面白く感じられるものかもしれない。

音楽性というところでいうと、JAZZピアニストの上原ひろみさんのLIVEをたまに見る。技術も創作もずば抜けた才能を持つ、まさに天才だ。youtubeでI've got Rhythmなんかを検索すると分かりやすいだろうか。世界中から大絶賛されている。

彼女が演奏するシーンで注目すべきは彼女の指先の速さということもあるが、それ以上に着目すべきは彼女の胴体に流れるエネルギーのデカさだ。ほんともう、こういった大天才になると次元が違って胴体が凄まじくエネルギーに満ちあふれていて、その体内の動きも早すぎるということが感じられる。右手と左手は独立して別の生き物のように感じられ(その場で即興で音を創作しているのであるから当然かもしれないが)顔は途中で観客の反応を見ながらニコッと笑うほどの余裕がある。

彼女の顔は喜びに打たれている。むしろ、体内のエネルギーの爆発が大きく、早すぎて何とか表現したいものの、仕切れない部分が幾分にもあるように見える。胴体と指先、ピアノが全て繋がって一体化して、一つのまとまりにみえてくる。ピアノをまるごと使うとこうなるぜ、というのを魅せてくれる。

機会があれば「Hiromi solo Live at Blue Note New York」を見て欲しい。最初から凄まじい彼女の速度を見ることができよう。そして、最後の「place to be」の曲の前のスピーチからの演奏の流れまでは見事としか言いようがない。

「ありがとうございます。もう一曲演奏させていただきたいと思います。place to be という曲です。この曲をここにいる皆さんに捧げたいと思います。私は一年中、世界中を旅する毎日で、時々自分の居場所はどこだろうと考える時があります。でもステージに立って皆さんのこの笑顔が見れた時、ここが自分の居場所だと確信するんです。

私に居場所を与えてくれて本当にありがとうございます。

だって奇跡だと思うんです。今日と全く同じ顔ぶれがそろう事は二度とないんです。偶然隣同士に座っているかもしれないけれど、それももう二度と起こらないかもしれない。

一生に一度しか起こらない事。その出会いに心から感謝したいと思います。そんな気持ちを込めてこの曲を演奏したいと思います。 

place to be  thank you very much!」

何度見ても非の打ち所が無い。
完璧だ、完璧な流れだ。

その映像を何回見ただろうか。もう数えるのをやめるくらい見た気がする。スクリーン越しに見たその体験が勝手にこのように文を生み出させている。


何かが見えてくれば文なんか書けるようになる。

最初に出す文は技術も何もない。めちゃくちゃ、とても人に出せるものにはならない。だけど、それを恐れているといつまでも書けるようにはならない。

めちゃくちゃなら、めちゃくちゃなりに、やっていきましょうという話でしかない。感覚をその場で、こういう形で出しているのだから、自分が予想にしなかった方へ文の結末が行くこともかなり多い。でも、何とか着地するものだ。

感覚を指先に伝えていけば、文章は創出される。実際に文章が体験を追っかけるという形になって出て来るのだ。


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