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映画自評:イ・チャンドン監督「シークレット・サンシャイン」は、「目に見える」テーマ以上に広く考えさせられる

「イ・チャンドン レトロスペクティヴ 4K」として京都のミニシアター出町座でイ・チャンドン監督の特集が組まれ、今週の月曜日に観た「ペパーミント・サンシャイン」に次いで「シークレット・サンシャイン」を観に行った。
正直ここまで立て続けに観るつもりはなかったのだが、「ペパーミント・キャンディー」が良かったので、監督作品に対する期待が高まったのだ。
以下ネタバレを含む。


先にネガティブな評価から言っておくと、長い!
もっとテンポよく、全体が短ければ万人受けするはず。

内容について全く事前情報なしで観たので、ストーリーの進行がどのようになっていくのか途中心配になった。もちろん知った上で観る訳ないが、ある程度ミステリーなのか、宗教モノなのか、恋愛モノなのか、大雑把な情報を知った上で観る選択を普段はしているので、だからこそ長帳場という時間も含めストーリーの進行が心配になったのだ。

内容に踏み込もう。
神はいるのか? (いきなり)
神は全てを承知して、全てを許すとする。
それは、全ての人にとって「平等」であろうか。
ここでは平等であるかどうかは問うてはいない。
神を信じたかどうか、神の許しを得たかどうか、だ。

ボクはこの映画を観て必ずしも宗教批判だけだとは感じなかった。人の自己の都合の悪い矛盾に対するどんなことにでも通ずる事柄に当たる事案を分かりやすい宗教を題材にして浮き彫りにしているだけだと思っている。
それはちょうど今「21レッスンズ」というユヴァル・ノア・ハラリ氏が描いた著書を読み終えたばかりなのもあって、彼の影響もうけていることもあるだろう。(脱線は控えますw)

映画の中でも息子さんが亡くなった理由を神様がどのように捉えているのか、「理由」を勧誘者に問うた時に、明確な回答は帰って来ず、回答は胡麻化され、あやふやなままだった。これは宗教によくあるケースだが、実は宗教だけではなく政治でも、経営でも都合が悪くなった時の言い訳の模範解答例なので、宗教に限ったことではないと思う。

本作品では、監獄に入っている受刑者が先に許しを得ているという事実は、被害者家族が悩みに悩んだ末に許しを与えようと決心し、加害者に面会するという行動に移す過程の前にいとも簡単に得られており、犯罪者が既に被害者家族より前に神より許しを得て満足した表情をしているという事実は、被害者家族からしたら理解しがたいことであろう。

神とは、何ぞや。

極論を言えば、その宗教はどんな罪でも加害者は犯罪を犯しても神の許しを得るべく心を改心すれば、罪の意識から軽減されるというのだろうか。
被害者を取り残して。
ボクから言わせれば、現代宗教側も被害者に対し二次被害に加担したのではないだろうか。
当作品は、実際の事件を小説化したものがベースにあるという。ならば、該当宗教も実在したのだろう。
何処の国にもあるだろう無意識の「加担」罪、善良という名の「加担」罪、について今一度考えては如何だろうか。

最後に、主人公に常に寄り添う男性について監督はどのように考えていたのだろうか。実際にあった事件、小説を映画化したものであれば、この男性役がどの程度現実に沿っていたのか、興味もあるところだが男性の生き方もはかないものだ。

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