Positionismはサッカーから自由を殺すのか? 〜Relationismからの批判とその考察〜

約1年ほど前から英語圏のサッカー戦術議論で話題になっているPositionism / Positional PlayとRelationism / Functional Playの対立が、新たな盛り上がりを見せている。

後に著者の中からドルトムントやリーズ・ユナイテッドでコーチを務め活躍するレネ・マリッチ等を輩出したことにより、戦術ブログの中ではおそらく最も世界的に有名なSpielverlagerung.deにPositionismとRelationismに関する新たな記事が掲載されたのであった。

「Protagonists Of The Game – Between Absolutism and Relativism (試合の主役 - 絶対主義と相対主義の間)」と題された記事では、この議論の火付け役であるJamie Hamilton氏とハンガリーサッカー協会で分析官として活躍するIstván Beregi氏が司会を交えて対談する形式でRelationismについて深く議論されている。

前出の拙稿に記した通り、筆者自身は(おそらく多くの戦術議論に興味が高い人同様に)PositionismとRelationismの2つは戦術的にグラデーションのようなもので決して対極する別々のものであるとは考えていない。

一方で、当初よりRelationism派閥の人たちが主張する「Positionismはサッカーから自由な創造性を奪う」という”思想”あるいはサッカーという競技の”解釈”については相容れない部分があると考えており、その主張は先のSpielverlagerung.deの記事の中でも色濃く取り上げられている。

本noteではその”自由”にまつわる議論について考察する。

サッカーの自由は死んだのか?

議論の的となるサッカーにおける”自由”は大きく分けて2つある。

一つは各チームが採用する戦術のバリエーションで、2008年‐12年のペップ・グアルディオラ率いるバルセロナの成功以降、多くのチームがその戦術あるいはそのゲームモデルの原理・原則を真似たことにより「バリエーションの自由が死んだ」と主張するものである。

もう一つはJuego de Posicionの原理原則をピッチ上で選手たちに徹底させたり、攻撃を”パターン化”することで「個の持つ創造的なプレーを選択する自由が死んだ」とミクロの観点から主張するものである。

戦術のバリエーションの自由は死んだのか?

バリエーションの”死”について当該記事の中でIstvan氏は

多様なスタイルが殺されたことに関しては、7月にレスターとリバプールの親善試合を観ていた時のことを思い出すよ。両チームともポゼッション時は3−2−5の形になる同じことをしていたんだ。最初のフォーメーションは違うかもしれないけれど、ポゼッション時の最終的な形は3−2−5の同じ形になっていた。(中略)多くのチームはポゼッション時2-3-5または3−2−5を採用し、CBとフルバックの間のスペースを後ろからの飛び出しで狙い、ファーへのクロスを狙っている。(About killing the styles – I remember I was watching a friendly game in July between Leicester and Liverpool, in which both teams were creating a 3-2-5 structure in possession, basically doing the same, starting from different formations, but ending up to become the same. … What does most of the teams do – creating a 2-3-5 / 3-2-5 in possession, attacking the CB-FB space with runs from depth, looking for the 2nd post in crosses.)

https://spielverlagerung.com/2024/01/10/protagonists-of-the-game-between-absolutism-and-relativism/


興味深いことに、同様の主張はセイルー・ロやペップ・グアルディオラ同様にJuego de Posicionの体系化に大きく寄与したフアンマ・リージョ氏(現マンチェスター・シティアシスタントコーチ)も2022年W杯の振り返りの中で同様の主張をしている。

この”バリエーションの死”について当該記事の中でJamie氏は次のように考察し、

現代の客観的な指標を埋め込もうとする動きは、サカーの戦術モデルや理論から(理論体系化にとって)時に不都合となる”人間らしさ”の影響を排除しようとしているように思える(It seems as though the goal of the modern objectivist movement has been to dampen the influence of these inconvenient aspects of humanness from the theories and models of football tactics.)

https://spielverlagerung.com/2024/01/10/protagonists-of-the-game-between-absolutism-and-relativism/

また、その”対極”にあたるRelationismの思想については

Relationismの考えでは、(Positionismのような)理屈が通っているまたは”正しい”と思われるような事前に決めた原理原則を押し付けるのではなく、選手間のやり取りの中から合図やジェスチャーといったコミュニケーションが自然と起こるような環境を作ることを目指している(Relationism seeks to afford an environment where the system of communication (signs, signals, gestures etc) emerges from the interactions between players rather than stemming from a situation which is constrained by predefined principles of what is rational or correct.)

https://spielverlagerung.com/2024/01/10/protagonists-of-the-game-between-absolutism-and-relativism/

Relationismにおいて”戦術”は”感情”から分離できない。それらはRelationismのもつサッカーを主観的に解釈する考えからは切り離せないものになる。(in Relationism ‘tactics’ are not separate from emotions, they cannot be abstracted from our subjective interpretations of the game. )

https://spielverlagerung.com/2024/01/10/protagonists-of-the-game-between-absolutism-and-relativism/

と語っている。

この”バリエーションの死”については実際にそのような傾向があることには同意するが、筆者個人はこの批判には一つの重要な観点が欠けているように思われる。

ここで批判される「”客観性”を判断のものさしにする」ということは、昨今ますますサッカー界での影響力を高めているデータ分析の活用と相性がいい。

サッカーとは絶えず状況が変化し、またボールに直接絡まない選手もパスの選択やシュートといった試合における事象に影響を与えるため、確率論的に解釈をすることが難しく、またバスケットのように1試合に多くのシュートシーンがある競技と違い、勝敗を決定づけるシュートのチャンスが極端に低頻度で起こるサッカーという競技では、仮に確率論的な理論を確立しても単なる”偶然”が最終結果に大きな影響を与えうる。

そのような中で客観性をゲームモデルに取り組むこと、すなわちデータ分析を最大限活用することは、意思決定を人間のバイアスに惑わされずに客観的かつ定量的指標に基づきながら行えるようになるだけでなく、まだポテンシャルが未知数の育成年代のタレントを失わないことにも繋がり、よりクラブ運営が安定することが期待される。

放映権料の高騰に端を発する現代サッカーの巨大ビジネスの側面から、盤石な経営基盤、安定した投資を行うためには必須であり、これは単なる”戦術論”の中だけで批判をすることはできないのではないだろうか。

個の創造性の自由は死んだのか?

すでにRelationismにおける戦術の意義の説明の中に出てきたように、RelationismではPositionismのコーチが選手にそのゲームモデルの原理原則を”押し付ける”ことで個のプレー選択の自由が死ぬことを批判している。

Jamie氏は

もしその原理原則が”論理的な考え”から導かれたものであるならば、それ(を落とし込むこと)は果たして「選手中心」な方法だと呼べるのだろうか?人間は全てを客観的または論理的に考えて行動することができない生き物のはずだ(How can an approach be ‘player centred’ if its principles are derived from an apparently objective ‘rationality’? Humans are not capable of being totally objective or rational,)

https://spielverlagerung.com/2024/01/10/protagonists-of-the-game-between-absolutism-and-relativism/

と批判する。

また、Relationismにおけるプレーの”原則”についてIstvan氏は

ファンクショナルプレーでは我々ハンガリー人が「ボールの位置のプレー」と呼ぶように、ボールのあるサイドに数的優位を作り、ラインを割る基本的なプレーを行う。ただポジショナルプレーと異なるのは、ポジショナルプレーでは基本的に相手を動かしてスペースを作るのに対し、ファンクショナルプレーは味方が動くことでもスペースが生まれる(もちろんそれはポジショナルプレーでも起こるがそれはその主要な方法ではない)(In the functional game (or a mirror translation as we say in hungarian -› positioned to the ball game) you can create numerical superiority on the ball’s side, which is one of the basis to break the lines. As opposed to the positional play spaces are not only created by moving the opponent, but also by the movement of the players (not to misunderstand – players also move in positional play and they also create space with it, but it’s not the dominant tool to create space as opposed to the functional game).)

https://spielverlagerung.com/2024/01/10/protagonists-of-the-game-between-absolutism-and-relativism/

その(味方の)動きは相手ディフェンダーの邪魔になるためには(予想のできない)バラバラな予想のできない混沌としたカオスなもので、この(ファンクショナルプレーを採用する)チームから生まれる組織的なソリューションになる。このようなソリューションは(論理的に導かれた)予想できる結果にしようとするポジショナルプレーのチームでは多く発生しない。ファンクショナルプレーでは、動きはボールを中心としておりまたその原理原則も(壁パス、オーバーロード、斜めの配置など)選手間の”つながり”を生むためのものになっている(the movement can and must vary to create obstacles for the defenders. Chaos often refers to the unexpected, combinative solutions which emerge from this organization. … In a way, this type of emerging solution usually happens less in positional play, as the core of the system is predictability, which gives stability for the system. Here the movements are more oriented to the ball, moving close to it (instead of moving away), whilst the principles are oriented to create connections (toco y me voy = pass and move / tabela = one-twos / tilting = overload / escadinhas = diagonality + asymmetry etc.).)

https://spielverlagerung.com/2024/01/10/protagonists-of-the-game-between-absolutism-and-relativism/

とPositionismとの違いを説明する。

この批判についても筆者個人はPositionism的な原理原則を選手に落とし込むことのメリットを過小評価しているのではないかと考える。

当該記事中にIstvan氏がアーセナル監督アルテタの「より多くのガイドラインや原理原則を落とし込むことで、選手の意思決定はより速くより簡単になる」という言葉を引用しているように、原理原則の共有化による意思決定の質向上はゲームスピードが格段に速くなっている現代サッカーにおいて非常に重要な要素ではないだろうか。

わずか一瞬の間に複数ある選択肢から正しいものを選択し、それを実行することは、個人的には非常に創造的なプレーだと考える。

また、先述の通りRelationismは、Positionism的方法論の普及による戦術のバリエーションの死を批判していたが、一般社会と同じく、ある集団において多様な価値観や特徴をもつ人々が共存する最も効率的な方法は誰の主観でもない客観的な原理原則をルールとすることである。

かつてはフィールドプレイヤーを全てミッドフィルダーにしようとしていたペップ・グアルディオラも、3冠を達成した2022−23シーズンは”個の創造性”が必要になる場面でそれぞれの特性が自由に発揮されるように前線にはハーランドのような典型的な9番を、守備ではCBを4枚並べる選手起用を行っており、それらのタイプの違う選手の組み合わせが変わらずに”ペップのゲーム”を体現することができたのは、共通する原理原則があったからに他ならない。

自由は制約の中に生まれるというのもまた”人間らしさ”なのではないだろうか。

戦術発展の歴史は繰り返すのか?

ここまで述べた筆者の私見の通り、Positionismは自由を殺すものというよりも自由の定義を変えるものだと個人的には考える。

この”定義”や”解釈”の議論はまさに思想・イデオロギーの議論であり、その結論はそれぞれの人の中の思想・イデオロギーに左右されるのではないだろうか。

先述の議論にもある通り、ピッチを縦に5分割する解釈が広く普及した現在では多くのチームがポゼッション時に2−3−5または3−2−5の形となる。

これは1920年代まで主流であったピラミッドフォーメーション(2−3−5)や1930年代にハーバート・チャップマンにより普及したWMフォーメーション(3−2−2−3/3−2−5)が人気となったかつてのサッカーの歴史に近いものがある。

サッカーの戦術発展の歴史はその後、そのWMフォーメーションをMMフォーメーション(3-2-3-2)に変えたプスカシュ擁するハンガリー代表や、WMフォーメーションを斜めに配置したDiagonalシステムに変えたブラジル代表が活躍し、それぞれのシステムで中盤の一人はより後ろに、もう一人はより前に動いたことから、後の4バックのシステムへと進化することとなる。

奇しくもこの2−3−5/3−2−5の普及へのカウンターであるRelationismもIstvan氏も活躍するハンガリー代表や、Relationismの象徴的監督であるディニス氏率いるブラジルの強豪フルミネンセがその旗振り役となっている。

果たして、サッカー戦術発展の歴史はかつての2バック/3バックから4バックへ進化したときと同じような経路を辿るのであろうか?

ただし、かつての時代と現代とでは状況が似ているようで大きく異なっている。

昔は存在しなかったビッグデータ分析が現代にはあり、それは(先述の通り)Positionism的な方法論と非常に相性が良い。

また、前線に5枚を並べるシステムは、それに対応する強固な5バックに対する新たな対策として、すでに6トップの形が普及しつつある。

2023−24シーズンのプレミアリーグ第19節でデゼルビ監督率いるブライトンが3−1−6の形でポステコグルー監督率いるトッテナムを4−2で撃破した試合は記憶にも新しいのではないだろうか。

歴史は繰り返すのか。それとも現代サッカーはすでに違う道を歩み始めているのか。

PositionismとRelationismの戦術論争はサッカーの未来を占うのかもしれない。

もし面白いと思っていただけたり、興味を持っていただけましたら、サポートではなく、ぜひ実際にスタジアムに足を運んでみていただけると嬉しいです。