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東京、2010年代、『明け方の若者たち』

※核心に触れるネタバレはありませんが、一部、物語の具体的な内容について触れています。『明け方の若者たち』評に見せかけた、カツセマサヒコ評。
カツセマサヒコ『明け方の若者たち』を読みました。とんでもなくよかったです。めちゃくちゃよかったです。飛びました。「恋愛」を愛するすべての人に読んで欲しいです。

『明け方の若者たち』は、Webライターないしツイッタラーであるカツセマサヒコの“小説家”としてのデビュー作だ。甘ったるくて生ぬるい、誰にでもあるモラトリアムな20代前半の時間を、2010年代の東京的な記号を用いて描く青春譚。

結論から言えば、初作を「インターネットの人」として書くことを決めた上で書く小説としては、素晴らしい作品だと思った。「大根仁・ミーツ・新海誠」なのかなと想像して読んでみたら、まさかの「『ノルウェイの森』・ミーツ・山崎ナオコーラ」だった(そしてそれは、自分としては後者のほうが好みなのでうれしいサプライズでもあった)。

とはいえ、実際、大根仁監督や新海誠監督へのリスペクトは、作品中に繰り返し出てくる。ヴィレヴァン下北沢で待ち合わせしてデートをするとかモロに映画『モテキ』だし、その待ち合わせシーンで描かれる「エロい話題を積極的に持ちかけてくる女の子」は新海誠の女性観を彷彿する。

そもそも「僕」と「彼女」のふたりは、映画『モテキ』に憧れているという裏設定があって、ドライブデートの際には車でフジファブリックの「夜明けのBEAT」を聴いていたくらいだ。

ホテルで彼女とセックスしたあとに、髪の匂いを嗅ぐのは、おそらく星野源「くだらないの中に」のオマージュだし、「サイゼで安く飲める」「死ぬこと以外かすり傷」といったインターネットスラング的なテーマも多く出てくる。

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文体は純文学的かと言えばそうではなく、どちらかと言うとSNSで見かける文章で、それでいてしっかりと、あくまで小説として書かれていた。それはつまり、過剰に文学でコーティングされていない生身のカツセマサヒコの文体だった。カツセは、Webライターとしての筆力は、他のトップランナーたちと比べると圧倒的に高いかと言うと、そうではない。

(どちらかと言えば、『フミナーズ』の編集長的な仕事ぶりからもわかるように、クリエイティブ全体をディレクションできるスキルを持ちながら、それをツイッターを始めとしたSNSをうまく活用して発信していける総合力がカツセの長所のように思う)

ただそれでも、この作品はあまりに素晴らしかった

「140字のツイッター」を主戦場としていた書き手が、「インターネットから登場した物書きの小説って、どんなもんなんだ?」という世間の目から逃げず、しかもそこで背伸びをした表現を選ばずに「書き手として等身大のカツセマサヒコ」を自ら選択した上で、「小説」という表現をやりきったこと自体がエポックでもあるし、まず素晴らしい。

そして、その前提の上で考えられるこの作品の魅力は、その「小説家としてまだ足りない力量」を、作品の構造、あるいは“とある仕掛け”を表現する上でのエッセンスとして昇華していることにある。

「ツイッタラーが小説を書く」ということの中に「不慣れな手付き」があるのだとしたら、その「不慣れな手付き」や歪さ、不協和音を、本作では物語に上手く組み込んでいる。弱点を弱点として見せるのではなく、弱点をむしろ強烈な武器に変換することに成功している

もう少し踏み込んで言うと、中盤までは、ふたりの雰囲気が本当に幸せなんだかどうなんだかよくわからない。これは、恋愛にまだ慣れきっていない20代前半の若者だからこその描き方なのか、単にカツセの腕の問題なのか、考えながら読み進めていた。しかしそれは、意図された仕掛けであった。

だからこそ、一作目で「Webライターないしツイッタラーが出自」という前提、もしくは呪縛、から解き放たれたカツセが、二作目以降でどのような表現を求めていくのか、すごく楽しみになった。

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キリンジの『エイリアンズ』、いいよねえ〜。

追伸

ひとつの「書籍」としても、とてもよいです。その装丁の美しさは、物語の美しさを確実に際立てています。

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何より感動させられるのは、それが、『明け方の若者たち』の主人公と同じように、新卒会社員時代を大手印刷会社で過ごしたカツセマサヒコの「印刷物、出版物に対する思い入れ」から来ているところです。退屈にも思えていたあの時間が、今、確実にこうして今の仕事の役に立っている。ムダな時間なんかない。「クリエイティブな仕事がしたい」と思った若者の想いがこうして形になっていることに、とても感動するのです。


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