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京都で考えた「大人の教養」


「教養のある大人になりたい」
小さいころからぼんやりと、カッコいい大人になりたいと思っていた。
きれいで、頭がよくて、仕事ができる女性。それが私の理想の大人だった。

そして今、世間的には大人、というかもう中年といわれる世代に入りつつあるけれど、残念ながら私はその3ついずれも持ち合わせていない。
天は二物を与えず、なんて言葉があるみたいだが、この世の中には私みたいに何も与えてもらえない人間がいるもんだ。むしろマイナスからのスタートかもしれない。

神様が何も与えてくれないなら、自分からとりにいかなきゃ。
これを劣等感といえるのか分からないけれど、何か得意分野を持ちたい、強みを持ちたいという気持ちは物心がついた時から人一倍強く持っていて、いろんなことに手を出してきた。
そして今、ようやく自分のものになりつつある、いや、控えめにいって、ようやく自分がこの道を歩んでいきたいと思える分野ができた。
それは茶の湯だ。

茶の湯は単にお点前の作法だけではなく、日本の文化への窓口であると思っている。
禅や食、建築、花等、様々な分野に触れることができる。
奥が深い分、お金もかかる。
茶の湯は、私の日常生活に結び付いたものではない。
でも、身につけることができれば、いい女に近づけそう。
そんなひねくれた思いをエネルギーにして学び続けてきていたが、気づいた時には、茶の湯の講師として教えられる立場になっていた。一応。
そしてさらに気づいた時にはアラフォーになっていた‥‥‥というのはここだけの悲しい話だ。

1月の最終週の週末、茶の湯を教えてもらっている先生が京都で開かれる茶会に参加するというので、ついていくことにした。
ある美術館の館長のご厚意で、美術館の中にある茶室にて新年を祝う茶会が開かれる。お茶会では、美術館に収蔵されるような茶道具で、お茶がふるまわれるとのこと。

生まれも育ちも関東から出たことのない私にとって、京都はいつだって別世界だ。
茶の湯だって学生の頃に興味本位で始めたが、その道は長く、奥が深い。
知れば知るほど、その奥の深さに、時に後ずさりするほどだ。
美術館で展示されるレベルの茶道具でのお茶会なんて、どんなものだろう。知的好奇心が大いに刺激された。

茶人とは言い難い小物の取り合わせとポーズ

お茶会には形式があり、席に入る順番が決まっている。その中で、1番先に入る客を正客、正客にに次いで並ぶ客を次客という。正客の席はそのお茶会を開く亭主にとって、最も重要なお客様がつく。このお茶会では、私の先生が正客を務めることになった。弟子である私は先生の後をくっついて行動するので、自動的に次客を務めることになる。先生曰く、その茶会には日本各地で茶の湯を嗜む人が集まるらしい。亭主から特に大切に扱われるべき次客の座につくのに、お茶の飲み方とか、ちゃんとできるかな。そんな不安ばかりが一気に頭の中でいっぱいになった。

茶室の中の歩き方から扇子の扱い方、正座の仕方にお茶碗の扱い方。いろんなルールがあるのだけど、私は人に見られることばかり意識して終わってしまった。いただいたお茶やお菓子がどんな味だったか、また参加者の振舞いがどんな感じだったか、全く記憶にない。
その一方で先生は、お茶道具のご由緒についてを亭主である美術館の館長と話し合ったり、出されたお茶やお菓子の感想をどんどん発言し、時に参加者から、時に美術館の館長からも感心を得ていた。私が気にしていた所々の動作は、他人とコミュニケーションをとりながら自然に振る舞っていた。

お茶会の後、美術館内を見学した時、先生がこういった。
「私くらいの年齢になるとね、美術館で見るものは、新たに出合うというよりも、何回目かの再会を果たすことが多いのよ。今回の掛軸だって、最初に見たのはもう30年くらい前かしら。あなたも今のうちに、たくさん見ておきなさい」

先生はすごいなぁ。
お茶に関わることはなんでも知っているんだ。

また、お茶の道具のことをよく知っているだけでなく、他人と意見を交わすのがとても上手だ。
自慢している感じはなく、だからといって謙遜もしていない。

「素晴らしいと思うなら、素晴らしいと言えばいいじゃない。それだけよ」

茶の湯の修行で自分の中のストック量と経験値を増やし、得意分野を伸ばす努力を続けること。
これは教養を豊かにするために大切なことだ。
でも、そればかりに固執してしまうと、頭でっかちの偏った大人になってしまうと思う。

できない自分を受け入れること。
言い訳になってしまうかもしれないけれど、できる状態まで待っていたら、いつになっても殻の外に出られない。

相手を受け入れること。
当たり前のことかもしれないけれど、世の中には同じ分野で自分よりも秀でた人、自分が持っていないものを持っている人がたくさんいる。
逆に、自分は知っていることを知らない人、それに興味がある人、まったくない人、いろんな人がいる。

そんな自分と相手を受け入れつつ、茶の湯を、その楽しさを他人と共有すること。楽しみを分かちあえれば、文字どおり、自分だけでなく、他人も楽しさが倍増する。
教養のある大人というのは多分、こういうことが自然にできる人のことをいうのではないだろうか。

今の私は気張っているし、この「共有」の仕方がまだぐらぐらしていて、茶の湯に限らず、多方面で空回りしている気がする。
私がこれまで書いてきた記事だって、他の人が読んで面白いものか、正直自信がない。
でも、これからも失敗を重ねながら、できることを増やしていきたいな。

理想像に対する新たな発見と、これから生きる道筋がなんとなく開けた京都旅となった。

会場近くの平安神宮

今、京都のホテルで先生が寝返りを打った。
キーボードの音がうるさいのかもしれない。
さて、今日は早めに布団に入り、今日の余韻に浸ろうか。

**この元記事は、「大人の教養」をテーマに5,000字ライティングの課題として先週末の京都滞在時に書きましたが、掲載見送りとなりました。指摘いただいた事項を踏まえ、リライトしたものをここに残します。**

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