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2023/10/11 BGM: Massive Attack - Live With Me

今日は休みだった。図書館に行く。そこで岡真理『ガザに地下鉄が走る日』などを借りる。パレスチナとイスラエルをめぐる報道が気になるので、過去に1度だけ読んだことがあるこの本を読み直すことでまた自分なりに何かを学び取れたらと思ったからだ。こうしたことがらになるとぼくの中にある正義感はついつい「働きすぎる」、がゆえにXなどを見ていても論争的になってしまい「それっておかしくないですか?」「アホですか?」と投稿しそうになる。いろんな人がいろんな意見を持つのは、それが強引に他者の権利を侵害したものでない限り自由であるべきだ……きれいごとかもしれないけれど、それでもこの原則を保ち続けたいと思う。もしこの原則を忘れてしまうと、そこから「自分の正しさのために人を『強引に』ねじ伏せる」ことを良しとする思想へはそう遠くない。過去、たとえばアメリカ同時多発テロ事件やそこから起きたイラク戦争、あるいはそれこそガザ地区のコンフリクトなどに触れた時に他人とネット上で無闇矢鱈と「論戦」したことを思い出した。よほど暇だったのだな、と思い返して赤面してしまう。現実がこんな状況だからこそ、非現実的に「万能薬」を探すことにためらいを感じる……と書くと「じゃ、罪なき人が殺されているというのにあんたは『対話』『読書』で解決するつもりなのか。それこそ暇人だな(笑)」という話になってくるのだろう。ぼくだって忸怩たる思い、つらいジレンマは感じている。これを理解できない人とはわかりあえない。

イオンに行き、そこで雨宮処凛『生き延びるための「失敗」入門』を読む。ぼく自身も過去、恥じ入りたくなる「失敗」をしてきたなと読みつつ思ってしまった。とりわけぼくは10代につらい過去を過ごしてきたので、そこから「大学に入ったら生まれ変わろう(俗にいう『大学デビュー』)」と思ったりもした。あるいは当時は発達障害のこともまだわかっていなかったので「こんなつらい思いをするのは世の中が『100%』『まったくもって』間違っているからだ」とも思い、そこから「他罰思考」「白黒思考」が芽生えたとも言えるのかもしれない。そうした考え方の名残りから自分が20代・30代に(政治に対してはろくすっぽ『ド素人』でしかない、ただのしがない勤め人でしかないのに)やたらと人をボロクソになじる人間になったのかなとも思う……酒に溺れていた時代でもあったので、現実を見ずに「いや、世界の趨勢で言えばこんな生き方こそが新しいんだ」「すでに引きこもりやニート、フリーターがあふれる世の中なんだ。まともに勤めに出られなくて何が悪い。むしろみんな頭がおかしいから社会で勤め人としてやっていけるんだ」とも思ったりしたっけ……つまりはそれだけぼくが傲慢で短絡的だった、ということでいいのかなとも思う。

じゃ、どういう生き方が「正しい」んだよということになる。これに関してはぼくとしては、恥ずかしながら48になってもまだ「日暮れて道遠し」としか言いようがない。たぶんぼくは一生「これでいいのかなあ」と思って生き続けて死ぬのだろう……ただ、こんなスットコドッコイな生き方、満身創痍で「失敗」だらけ「恥」だらけの生き方をしてきたぼくの周りにはいま、真に信頼できる温かい方々がいる。断酒会、あるいは発達障害を考えるミーティング、国際交流協会……それがぼくとしてはありがたい。子どもの頃からいまに至るまで、あの「ばい菌がついてるから近寄るな」「ひねくれ者」と言われて「変人」「ヘンタイ」と言われて、そこから「使えないやつ」「大学で何を学んだんだ」と足蹴にされた日々があって……そんな経過をたどったぼく自身の根本的なところは何も変わっていないというのに、世の中はどんどん変わる。周囲がぼくのベースにある発達障害を理解してくれて、ぼくもそこから「自分も変わらないといけない」「認知を改めないといけない」と思い始めている。まあ、それが人生というものなのだろう。もういまでは過去のトラウマを思い返すこともない。酒抜きの生活にも(完全にではありえないにせよ)慣れてきたと自負する。生きることが多少はうまくなったということなのかもしれない。

夜、断酒会に行く。そこで体験談を話させてもらった。ふと、そこで会長や他の方の話を聞かせてもらいながら「でも、どうやってぼくは自分のアルコール依存症を『認められた』のだろう」と考えてしまった。これはつまり断酒会で常に言われている「酒の力にぼくは無力だ」「だから酒を『器用に』呑むことなんてついにできない。断酒しかない」ということを呑み込んで、「思い切った」ということだ……わからない。だけど、1つの可能性として断酒会の例会に通い続けて他の方の話を聞かせてもらってそこから「ああ、あの経験は『アルコール依存症』のせいだったんだな」と気づきを得られたことが大きかったのかなとは思う。そうして人とつながること、人から虚心に学ばせてもらうことが自分自身を変える契機になりうる。それはそして、他の人だって同じだろう。図式をひっくり返して、ぼくがこうして日々吐露し発信しているなんでもない他愛のない日々のドタバタというか、スットコドッコイな毎日が人を癒しているかもしれない可能性を思ってみた。ならば、ぼくはカッコつけてキラキラした日々を演出する必要なんてないのかなあ、とも思う。いや、その前にぼくはそんなキラキラした日々なんて送っておらず、読書だって何だって結局はこんな生き方しかできないからやっているだけというか、「ついに無能無芸にしてただこの一筋につながる」(松尾芭蕉)ということなのだけれど。

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