『ドラマ版おっさんずラブ』に人生を救われた私が、『劇場版おっさんずラブ』で絶望した話

●はじめに
タイトルで誤解されるかもしれませんが、劇場版おっさんずラブを結果的にめちゃくちゃ褒めているつもり
個人の感想(自分語りと一部考察)です。

批判的な感想・考察を読みたい方にはあまりオススメ出来ません。ごめんなさい。
あと、ネガティブなのは欠片も嫌だという方にも優しくないと思います。更にごめんなさい。

この感想は8月23日9:30〜の初回上映を観て、その後複数回鑑賞済の私が書いています。
ただ、基本的な芯のところは、初回の感想と感情を基にしています。
初回後すぐ、他の方の感想を見る前にその時の気持ちをメモに書きなぐったので、それを大事にしながらこの文章を書いているのですが、その後別の考察や解釈を読む中で自分の気持ちが分かったり整理された部分がありますので、そういった部分での肉付けが存在します。

あ、当たり前ですが、ネタバレだらけだお






●以下ネタバレだらけの本文






「劇場版おっさんずラブ 〜LOVE or DEAD〜」公開おめでとうございます!

連続ドラマが2018年6月に終了してから、完全におっさんずラブロスに苦しんでいた私は、2019年8月23日を本当に待ち望んでいました。
本当に、本当に、楽しみにしていました。

楽しみにし過ぎて、インタビューやグラビアなどが掲載されている雑誌はほとんど買ったし、おかげでキティちゃんグッズが増えてキティファンみたいになったし(同じ境遇の人絶対いると思ってる)、新しい予告映像や写真が出るたびに春田や牧くんの幸せを祈って一喜一憂したし、おっさんずフェスでキャストの皆様を生で見て感激し過ぎて若干記憶に無いし、公開が近づくにつれて情緒不安定になったし、公開前日は目が冴えて眠れなかった。


冗談ではなく、私はドラマ版おっさんずラブに人生を救われたと思う。

自分の人生、別に最悪ではないし、むしろ恵まれている部分もたくさんある。順風満帆ではないけれど、うまくいっていないわけでもない。
ただ、自分が所謂「世間一般が考える典型的な幸せ」な生活をおくっていないことは、心のささくれみたいに、ずっと気になっていた。

そんな中、たまたまドラマに出会った。
途中話から見始めたという変則組だけれどおもしろいくらい一気にハマった。
第5話の「まぁ、うん」と帽子ポンにヤラれ、第6話の別れに号泣した1週間後、最終話で、春田が牧にプロポーズをして二人が結ばれた時、また、涙が溢れて止まらなかった。

人を好きになるって、人を愛するってなんて素晴らしいことなんだろう。
私も、春田と牧みたいに一生懸命になりたい。人を愛したい。大好きな人に大好きって言いたいし、言われたい。
幸せって、人に決められるようなものじゃない!自分で決めていいんだ!
おっさんずラブ世界の人たちみたいに、生きられたらいいな!
私はおっさんずラブを観て、すごく幸せだ!!!




私は、多くの他のファンの方々と同じく、牧くんを応援していた。牧くんに幸せになって欲しかった。今思えば、ほとんど自己投影していたと言ってもいいかもしれない。
ドラマの劇中で、牧くんが牧くんなりに、とっても頑張っていたのは知っている。
でも、良く言えば少女漫画的な、相手のことをずっと純粋に想っていれば、最後はきっとヒーローが迎えに来てヒロイン(実際牧くんのポジションは「ライバル」だったけど)を幸せにしてくれる関係に、心躍らせていたのも事実だった。
テレビの向こう側は、花が咲いて、空は青くて、ライトはキラキラしていた。
そう、春田と牧は、私とは違う世界の住人だった。


なのに。
映画は、何かが違った。

初回を見終わって、満足感と同時に、正直、何かは分からない何かがお腹の中に溜まっていた。
あの、図星を突かれた時に、内臓が浮いて重力がなくなる感覚。その感覚に似たものが持続力を持って、私の中に存在していた。

今日の日を、あんなにもあんなにも楽しみにしていたのにどうしてだろう。

俳優さんたちは演技うまいし、音楽も映像も素晴らしいし、そもそも大画面で見る春田と牧最高だし、部長への愛に気づけたし武川さんは全力だし狸穴さんもジャスもよかったしちず大好きだしマロと蝶子さんはまとまったしマイマイと鉄平にいもおもしろいし、ていうか映画化したこと自体が奇跡だし。
賛否両論ありそうな結末も、理解は、出来る。

でもこれは、私が期待していたおっさんずラブではない、気がした。

ドラマ版を見終わった時のような
「ステキ!あぁ幸せ!私も恋がしたい!」
という高揚した多幸感は無い。
春田と牧が紆余曲折を経て結ばれた嬉しさは、もちろんある。
でも、心の中にぽっかり穴が空いた悲しさみたいな、曇った何かが澱のようにお腹の中に溜まっている苦しさみたいな、何かを失ってしまった強烈な寂しさみたいな、説明し辛いけど、重い光みたいな薄灰色のものが心臓の下、体の中心から退いてくれない。

おかしい。
私はおっさんずラブで幸せになりに来たはずだったのに。

ドラマ版最終回みたいなハッピーハッピーラブなエンディングを期待していたのに。
そしてなんだかぽわぽわなりながら、満ち足りた顔で映画館を後にするはずだったのに。
なんでこんな嬉しいのか悲しいのか苦しいのか寂しいのかよく分からん表情で、トボトボ帰らなくてはいけないんだ!



というかそもそも、私は春田と牧のラブラブチュッチュが観たいんじゃい!
結ばれた二人が、相手のことを「大好き♡」ってなってるそのむず痒さにキュンキュンしたいんじゃい!
映画が「ドラマの続き」を描くっつーんなら、それは「あの暗転の続き」の世界に決まってるだろがよぉ公式さんよぉぉぉ!!!

何で春田と牧くん同棲解消しとんねん!
そして見事なすれ違い!二人とも腹に言いたいことため過ぎや!
極めつけ別れ話とかもう、もう、…!

あー!ね!わかる!既視感あるよ!私この感じ自分自身に身に覚えあるよ!

牧くん、春田に伝えたいことがあるんじゃろ?
伝えなきゃいけないってことにも気付いてるんじゃろ?
でもそれ言ったら今の関係が壊れるかもって怖いんじゃろ?
だから言えないよねそりゃあね!
伝えなくても分かるとかそういうのじゃないねん。
それはね、結果本心じゃない、ガッチガチの言い訳だから!
結局自分がかわいいんでしょ?自己保身的なアレでしょ?
だって揉めて変なふうな方向にいったら心が疲弊するしそんな余裕ないもんね!それに最悪相手を失うかもしれんしね!
だったら今は言わずにおいた方が、得策やんな!よし、今じゃないよな、後にしよ!
でも二人で会ってればやっぱり「好きだな」って思うから嬉しいし楽しいし恋人っぽいことしたいし、だから、とりあえず問題は棚上げしちゃえばそのうちなんとかなるかもしれないしね!
まぁそういうのって往々にしてなんとかならないんですけどね!
そう今これ全部牧くんじゃなくて私に言ってるからね!!!

だから私は二人が橋の上(きんぴらごぼう)とか花火でいちゃいちゃしてるの見てて、めちゃくちゃつらい。
二人のパズルのピースが、上手くはまってないのが分かるから。
歯車がどんどん噛み合わなくなってきてるのが分かるから。
言い出せない何かを、二人が抱えてるのが分かるから。
う…書いててお腹痛くなってきた…。


「春田さんみたいに何でもギャーギャー言いたくないんですよ!」
「だったら一生ひとりで抱えてろよ!」
「そっちが成長してないだけでしょ」
「お前といるとイライラするばっかりなんだけど!」
「狸穴さんはそんなガキみたいなこと言わないですよ!」
「急に上から目線?マジ引くわ」

ぎゃー!
おま…おま…それ絶対言ったらあかんやつー!!!言葉がピンポイントで相手の急所に刺さっとるー!!!
お、おおおお、お願いだから喧嘩しないで…!
ヒイッ…てなるから!こっちの息が止まるから!!情緒が死ぬから!!!




なんてこった…。
「劇場版はドラマの続き」って言ったじゃーーーん…。
誰も他人の気持ちを否定したりしない、ありのままを受け入れてくれた、あの優しい世界はどこに行ったの…。
全然ちゃうやん。全然続いてないやん…。

つれぇ…。
俺は劇場版おっさんずラブのことなんか好きじゃない…。





公式は、「劇場版はドラマの続き」だと言ったけど、とんでもないミスリードだと思った。
だって、私は「劇場版はドラマの続き」だから「あの暗転の続き」そのままの世界から物語が始まると信じていた。でも、当然ながら物語の中では1年という時間が流れていて、そこに生きる登場人物たちの土台の世界は、ドラマとは全く違っていた。
だから、私を含む「ドラマの続き」を観たかった人は、みんなそこから躓いたと思う。

春田と牧は、私が想像していた以上に、離れていた1年間の中で、関係を深めていた。
男同士が付き合うことに大困惑していた春田はもういなかったし、春田の自分への気持ちに不安になっている牧ももういなかった。
二人はキチンと、恋人同士になっていて、抽象的だけれど、とても「リアル」になっていた。
そしてそれに呼応するように、おっさんずラブの土台の世界自体も、より「現実」になっていた。


微妙にファンタジー世界の話だった、ドラマ版おっさんずラブ。
誰が誰を好きであっても、その気持ちを否定したりしない、ちょっと未来の日本がこうなったらいいなという、優しい世界。
春田たち登場人物は、その優しい世界で生きていた。だから、いくら彼らが喜んだり悩んだり悲しんだりしていようと、私は少し離れたところからその様子を見ることが出来た。そしてそれに、他人として、一喜一憂出来た。
だって彼らは私とは違う世界で生きているから。

でも劇場版おっさんずラブは、少し先の夢の世界ではなく、今のリアルな現実世界の上にあった。
映画の中で春田と牧は、いつの間にか、私のいる、この現実世界を生きていた。

当然だけど、現実はファンタジーじゃない。
ファンタジーみたいに甘くない。
それは、現実を生きている私たちが、一番よく分かっている。

おっさんずラブが劇場版で描こうとした「現実」は、爆発やら時限爆弾やら誘拐事件やら記憶喪失やら100万人の笑顔が溢れる街やらが醸し出す、映画的な「ファンタジー」に、うまーく覆い隠されて見えなくなっている。
その覆いだけを観た私は、やっぱりおっさんずラブはファンタジーなのだと錯覚する。
「何で普通の不動産屋が爆破事件に巻き込まれてるの?めっちゃ映画っぽい!」
「部長、春田のことだけ記憶喪失て!そんなベタベタ過ぎるベタなことある!?月9かよ月9でしたね!」
「ていうかGenius 7(笑)ネーミングセンス(笑)」
と。

でも今回のおっさんずラブは、映画のファンタジーの殻をかぶりながら、核のところではとことん、現実を描いている。
だから、すごく辛かった。
キラキラした気持ちだけでは乗り越えられないことが現実にはあるんだってことを、私はよく知ってたから。


それを一番感じたのが、あの炎の中のシーンだ。
春田の「おれ、まきと本気で家族になりたかったんだよね。でも、おれ何にも分かってなかった。」から始まる誓いのシーン。

「男同士ってさ、結婚出来ないじゃん。法律的に。」
「それにおれ、すげー子供好きだからさ、そういうのとか、色々。」

何にも分かってなかった、と言った春田は、いきなり現実に言及した。
私は初回鑑賞時、「おっさんずラブ、珍しく踏み込んだ描写をしたな」と思った。そういう描写あえて避けて、ファンタジックな優しい世界を描いてきたのが、このドラマだったから。
だからかいささか唐突で、そこだけ明らかに浮き上がってるみたいに見えた。

でもそれは勘違いだった。
春田にとっては、別に踏み込んだ描写でもなんでもなかった。
「男同士結婚出来ない」ことや「子供が好きだけど牧とは持てない」ことは、すでに春田にとって、現実的でリアルな問題だった。

春田は続ける。
「この先さ、喧嘩ばっかりして…(中略)…ボケちゃって、出会ったころのことを忘れても、ていうかおれのことが分からなくなってもさ、それでもさ、それでもおれは、まきじゃなきゃイヤだ…。」

世界は優しくない。
春田と牧の関係は、これから冷えていくばかりかもしれない。互いの記憶から、相手が消えてなくなるのかもしれない。好きなのに、法的に結婚も出来ない。子供も持てない。
それが春田の現実で、そして牧の現実だ。

でも、その現実の上で、それでも春田は
「まきじゃなきゃイヤだ」
「死んでもまきと一緒にいたい」
と請うた。
優しくない現実の延長線上にある、人生の終わり。
それを迎えた後ですら、一緒にいたい。
死が二人を分かつまでではなく、死を経て救われるのではなく、死を越えたところででも、人生を共にしたい。

牧という一個人の存在への、絶対的な肯定と尊重。
自分の人生に、どうしても牧がいて欲しい、と言う春田に、牧は同じく春田という一個人の存在への、絶対的な肯定と尊重をもって、
「俺も春田さんじゃなきゃイヤだ」
と答えられた。


牧は多分、プライドがものすごく高い。
自己肯定感の低さの裏返しからそうなっているんじゃないかと思うけど、とにかく自分の心の真ん中にあるものを、滅多なことでは他人にーー春田にすら、春田にだからこそーー見せない。
直情型な割に、自己開示は死だと思っている節すらある。

牧の人生において、おそらくずっと現実として存在していた「結婚」「子供」の問題。
春田の人生にとってもそれが現実になったことに、春田自身が言及したことで、二人は対等になり、ようやく少し本音が出せたのではないか。


対等である、というのは、人と人が関係を築く上で重要だ。特に牧は、そう認識しているのではないかと思う。

お互いが意思疎通出来ていない状態で、どちらかが無理をする関係は、おそらくいずれ破綻する。
はじめは、どちらかが頑張ればいい。どちらかが我慢すればいい。だってあなたのことが好きだから。
でも、その「好き」がすり減ってきてしまったら?他のことにパワーを取られて、余裕がなくなってしまったら?気持ちだけでこの現実を生きていくのは難しいと気付いてしまったら?

必ず相手のことが面倒になる。どうして自分ばかりと思うようになる。現実を知って、息苦しさばかり感じるようになり、そしてやがて、二人の関係は終わってしまう。
だから運命の赤い糸がきれてさよならへのカウントダウンが終わる前に、関係性を再構築しなくてはいけない。


春田と牧はあのシーンを経て、息が苦しくなるようなこの世界を現実として受け止めた。
でも決してそれは現実だから仕方ないと諦めたわけではなく、それを越えて、なお対等で尊重しあえる関係になった。
個人として、自分の人生を生きていくために、この世界の現実を、二人はただ事実にした。



…ていうかアレ?
おっさんずラブってこんな話だっけ?なんか凄く真面目側に振られてしまった気がする。
公式、確か「ラブコメディ」「ファミリームービー」って言ってなかったっけ?
全然違うくない?これこそミスリードじゃない???
そういえば五角関係もミスリードだったし、そもそも「おっさんたちの愛の頂上決戦(ラブ・バトルロワイヤル)」(ストーリーより)、「おっさんのおっさんによる命をかけた最後の戦い」(予告動画より)てなんやねんそれ。全然ちゃうわいい加減にしろ好きです!!!







さて、少しだけ自分の話をすると。

私は春田と同い年(ドラマ版の2018年時点。つまり田中圭さんと同い年)で、会社に勤め、毎日を過ごしている。
関西出身都内一人暮らしで、休みは取れるけど給料は安くて、仕事内容は客商売でストレスがMAX。たまに辞めたくなる。でも辞めてまでやりたいことが何か分からない。
友達は少ない。いないわけではない。でも、悩みを相談出来るような存在かと言われたら、そうでもない気もする。
家族とは、事情があって10年以上連絡を取っていない。そして多分、これからも取らないし、取れない。
結婚はしていなくて、諸々の理由で結婚願望はあまりなくて、恋人はいない。好きな人はいる。でも恋人同士にはなれないだろうし、なる勇気がない。恋人になったら、私の家族の問題と、向き合わなきゃいけなくなるから。



ドラマ最終回から1年以上経って、私は、あのときの幸せな気持ちのストックが、だんだん減ってきてしまっていたのに気付いていた。
現実の中を生きていて、だんだん息がしづらくなってきていた。

だから、私は、おっさんずラブに、また人生を救われたかった。
春田と牧に肯定されたかったし、彼らを肯定したかった。
おっさんずラブが、私をこのどうしようもない現実から、夢を見られるステキな世界へ連れて行ってくれると信じていた。

でも、違った。

劇場版おっさんずラブはファンタジーではなく現実を描いた。


見たかった温かいファンタジーの世界は、幻だった。存在しなかった。
ただ確実に存在する現実が、私を奈落へ突き落とした。


救われると思っていた私は救われず、ただ、私自身の現実だけが残った。
絶望した。
私の現実は現実でしかなく、映画を見終わっても、その現実は何も変わらず、鈍い色をして私の前に横たわっていた。



でも、春田や牧は、彼らの現実を受け入れて、それでも自分が、個人として自分の人生を生きていくために、自分自身で、それぞれの選択をした。
彼らは現実を乗り越えた。とてもまぶしく見えた。

「自分は、こう生きていきたい」
と決めた彼らにとって、決めた通りに生きることはもう必然で絶対だった。
彼ら自身が決めた人生に対して私が出来ることは、ただ、それを見守ることだけ。

私が彼らに出来ることは、なにもない。

だって彼ら自身が、自分の人生を、自分で考えて、自分が生きるって決めたから。
そしてそれを、お互いに尊重しあっているから。

二人が出した結論に、私なんかが口出ししていいわけない。





エンドロール。
桜並木の中を歩く後ろ姿の春田が、私からどんどん遠ざかっていく。
咲いたら散る桜みたいに、開いたら消える花火みたいに、そうあることは必然に見える。
圧倒的な無力感。
彼は私を振り返らない。
涙がとまらない。



うれしい
おめでとう
よかった
でも
くるしい
かなしい
さみしい
いかないで
私を置いていかないで



映画を見終わった後、胸にずしっと残った、重い光みたいな薄灰色のものは、きっと憧憬に近い寂しさだったのだと思う。





映画が公開される直前まで、春田と牧は私のそばにいてくれた。
でも、8月23日、二人は突然、私を置いて、私のはるか先へ行ってしまった。


私は春田と牧がうらやましい。
あんなふうに生きたい。
あんなふうに人を愛してみたい。
でも、きっと、あんなふうには生きられない。
あんなふうに人を愛せるようになれるのかも、分からない。



私は春田にはなれない。
私は牧にもなれない。
じゃあ、私はいったい、誰になれるのだろう。


私は、私にしかなれない。
当然だ。

だから、私は、私の人生を、私で考えて、私が生きるしかない。







今の現実を描いた劇場版。その現実を乗り越えた春田と牧。
だから、おっさんずラブは完結してしまった。

だからもし、映画の続編が万が一、作られるのだとしたら、それは今の日本の現実が、少し変わった時なのだろうと思う。
そしたら、その現実を乗り越える春田と牧が描けるから。
田中圭さんもご挨拶で「この映画がもっと大きくなれば、日本がもっと温かく愛情に溢れるようになるんじゃないかと本気で思っている」とおっしゃっていた。

つまり。
私たちが現実を変えれば、続編はある。

おっさんずラブは、やっぱり、その大きな愛でもって、私を、私たちを救おうとしてくれている。
私のいるこのちょっと生き辛い現実世界が、ドラマ版の時のような、お互いの気持ちややりたいことを尊重しあえる優しい世界になれるようにと、後押しをしてくれている。



劇場版おっさんずラブは、
「私たちが、ひとりの個人として、その人にしかない人生を、どう生きていくかの物語」。
そして
「その人にしかない人生を生きる人を理解し、応援していく物語」。


個人の生き方を尊重すること。
結局、人を愛するって、そういうことなのかもと思った。



でも愛するって難しい。
それぞれの生き方を尊重するって難しい。


それを象徴するのが、エンドロール後の二人のシーンだと思っている。
下の名前で呼び合って(最高でしたね)、キスをして(ただ最高でしたね)、指輪をした手で抱きしめ合った二人(ただただ最高でしたよね)。

牧は満ち足りた顔をしている。
春田は、なんだかさみしそうな顔をしている。
彼の現実を乗り越えて、自分で決めた道を歩むと決めた春田ですら、やっぱりさみしいのだ。
溢れる気持ちを止めることは出来ない。


二人はこれから何度も喧嘩するし、何度も揉めるだろう。
別れの危機だって一度や二度じゃ済まないかもしれない(正直、さよならの可能性もかなりあると思ってる)。
でもその現実も、どうか二人には乗り越えていって欲しいと、勝手かもしれないけれど、彼らと同じ世界の住人として、私は強く願っている。



だって、人を好きになるって、人を愛するってなんて素晴らしいことなんだろう。
私も、春田と牧みたいに一生懸命になりたい。人を愛したい。大好きな人に大好きって言いたいし、言われたい。
幸せって、人に決められるようなものじゃない。自分で決めていい。
私は私らしく、生きられたらいいな。


私は「劇場版おっさんずラブ」を観て、すごくすごく幸せだから







2019/08/30:初出
2019/09/19:誤字脱字修正