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近況と雑感

当事者でないとわからないこと、について考える。

英国の人気ロックバンドだったOASISのドキュメンタリー『supersonic』をBlu-rayで観た。当事者による証言に溢れていた(ように見えた)ので、彼らのリアルな姿を少しばかり垣間見たような気がする。当時から、彼らのことを好き放題言う人は多かったが、あの兄弟のことはあの兄弟にしかわからない。彼らならではの苦悩があったんだとも思った。これまでと歌詞の聴こえ方も曲の捉え方も変わった。30年近く聴き続けてきたけど、やっと私はOASISのファンになったんだな、と思った。

当事者でないとわからないこと、について考える。

誤解を恐れずに言うと、私は1976年日本生まれなので、戦争とは他の国で起こっているものという認識。私はリアルに戦地の恐ろしさを知らない。今はもういない私の祖父母は、戦争当事者だった。祖父母からは戦争の話は殆ど聞かなかった。あまりしたくなかったのかも知れない。

私は、様々な戦争映画や漫画『はだしのゲン』などで、戦争当事者の視点に軽く触れた程度でしかないが、とにかく恐ろしいと思った。人間って怖い。戦争は、ネガティブなコンプレックスの集積だとも認識している。当事者は知られたくないことだらけなんだろうから、隠蔽だらけなんだろうな、とも思う。

当事者でないとわからないことがある。

いじめ問題について語られる時、決まって、いじめた側も悪いがいじめられた側にも原因がある、という言説が付きまとう。

誤解を恐れずに言うと、その通りだと言えるし、それこそがいじめの構図である。ただし、それらの言説や傍観者たちによる理解の浅さがキッカケとなり、川下に向かって、大きな大きな問題を残していくことになる。

いじめた当事者はおろか、傍観者はいじめられた側のダメージの深刻さについて想像しない。それらが、いじめの中心問題であることを決して忘れてはならない。

いじめられた側は、いじめによって恐怖を覚える。身体や心の痛み、不安と不信感などの連鎖。

つまり、わかりやすく心身が傷付くことになり、自尊心が失われる。PTSDや様々な精神疾患のキッカケにもなる。その具体的な苦しみは、いじめられた当事者にしか理解することができない。

そして、殆どのケースにおいて、いじめ加害者はもちろんのこと、被害者側もいじめの事実を隠蔽してしまう。

当事者でないとわからないこと、について考える。

映画『死刑にいたる病』を観た。PG12指定だが、もしあなたがこれまでに、いじめやDV、レイプなど、理不尽な暴力を振るわれ恐怖に怯えたことがあるならば、年齢制限関係なくこの映画を観ることはやめた方がいい。当事者的感覚を強く刺激する生々しい暴力描写に加え、そもそも暴力の現場とは理不尽なものである、という絶望感を追体験することになる。

リアルな芸術、エンタメ作品というものは、どんな作品であれ「誰かの側」に立ち、それ以外の誰かの立場に立つことは到底出来ないものなのだろう。

映画自体は力作で、役者陣の演技と細やかな演出は素晴らしく、観る人によっては充分に楽しめる傑作映画だと思う。

ただ、暴力そのものの恐ろしさに加え、それを具体的に描くことの恐ろしさを感じざるを得ない。洗脳やストックホルム症候群など、2時間のエンタメ作品で取り上げるには限界があるのではないか、とも思う。

人は暴力を受けると、その恐怖によって、簡単に心が壊れてしまう。そして、暴力の味をしめた加害者は、心が壊れた被害者を支配/コントロールするために、身体的暴力にとどまらず、言葉の暴力、間接的暴力などあらゆる手段を使って被害者を苦しめることで、自尊心を保つ。

世間の「弱者の声」には様々なものがある。団結した「弱者」は声を上げることによって、新しい価値観や権利を得ることもある。

ただ、「ほんとうの弱者」たちは、至って孤独である。声さえ上げることが出来ない。立ち上がる気力や体力さえ失っているからだ。弱者の当事者意識を代弁することは、本当にむちゃくちゃ難しい。弱者は、コテンパンにやられているので、当事者意識の真ん中でただただ壊れているケースが殆どだからだ。

そして、弱者の代弁をする人は、必然と強者に「仕返し」をするようになってしまう。多くの人は、弱者のその姿勢を「強者と同じ穴のムジナ」だと感じ、距離を取る。そして、強者はそれを巧く利用する。

強者のホンネ、は、弱者とさして変わらないことが殆どなのかも知れない、と想像する。自尊心の欠落を、権力や暴力の正当化によって埋めている場合があるからだ。

暴力は恐ろしい。逃げるが勝ち、だと私は個人的には思うのだが、逃げるか戦うか、壊れるかの3択以外の対処法を、人間は編み出せないものだろうか。

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