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ほつれる(1175字)

GravityというSNSがあって、幽霊のようにたまに出没しているんだけれども、そこで「セカンドパートナー」という言葉を初めて知りました。
男は食事をおごる、女性は食う。
双方既婚者であり、体の関係は完全に排除される。
男女の友情が成り立つのかという論議は1億年くらい前からあるが、そこから派生した現実的な話のような気もする。
そもそも神の設定として、人間の場合は繁殖に男を用いる。受け身は女。たぶん遺伝子の中に種の保存というメンデルチックな書き込みがあるのだろうと思う。
その書き込みのない遺伝子を持たない女にはもちろん理解できるはずがない。
それはプログラミングであり、なんぴとたりと変更することは叶わない。
と、男の性欲を正当化しておきながらこの映画の感想を書く。

ほぼ門脇麦の一人芝居である。
あとは彼女にネタを提供する人たちである。
しかしいかにも今時いそうな人たち。
前段のような事情もあり、門脇麦演じる綿子を注視する。
旦那は浮気経験があるらしい。
それを受け入れながら彼女は夫婦生活を続けている。
この旦那、すごく気持ち悪いし、男から見ても物足りない。
しかも陰湿。
浮気疑惑を持ちながら直接調べるわけでなく、友達にまでアリバイを確認する気持ち悪さ。こんな男となぜ結婚したの?って思えるんですけど。
浮気疑惑を妻は否定する。
綿子は逃げ場か、旦那に与えてもらえない部分を相手に求める。
それはモノではない分、プラトニックの証明になる。
彼女が「浮気ではない」と主張するのは、法律的な「不貞行為」に準じているのかと思うが、その点において、自己の中で価値観をきちんと確立してある。
バルコニーで手を払いのけたりするシーンからそれははっきりと表現されている。
つまり綿子にとって、これがセカンドパートナーなんだろうなと思う。

Gravityでのセカンドパートナー論議は半ばお遊びだったが、これは現実の話し。
合わせて考えると、セカンドパートナーがなんであるかわかる気がする。
メンタル面に加え、セックスレスを離婚原因とする人としない人、それを下支えする法律。
結局は多くの情報を整理して理解するしかない。

綿子の意思がしっかりと表現されているのと、門脇麦のいつも不安に怯えているような表情を見ると、「なぜ後ろからガシって抱きしめてやらないのだろう」と思うばかりだった。
それに加え、余計なことをして嫌われるベーシストみたいなキャラはいっさい出てこない。演じるべきことだけを演じて去って行く。
綿子のいるときの染谷の笑顔はとても印象的で、セカンドパートナーのメリットにも感じた。しかし彼はやっぱり男で、綿子の手を自分の手を重ねる。
男と女はやっぱり違うし、男女の友情って危ういものだなと思う。
「こういう異性って、生理的にダメ」っていうのもあるけれど、神のプログラミングの前では意味がないのかもしれない。

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