昨今のquiet luxuaryに寄せて-normcore ノームコアとはなんだったのか- ひいてはファッションの軽薄さ

元の文章は2014年にnormcore ノームコアについて書いたもので、当時軽くバズって(その時にはバズるなんてことばも今ほど市民権を得ていなかった)、yahoo!のトピックスにも取り上げられました。
最近quiet luxuaryという「ああ、またか」と思うような言葉をちらほら見かけるようになり、その構造は結局10年前のnormcoreのときと微塵も変わっていないなと思い、この記事をサルベージしようと思い立ったわけです。

リズムや使用している楽器が変わっても流れているメロディは同じ。
もちろんアレンジによりその曲はよみがえりもしますし、陳腐なものになり果てることだってあります。

流行は巡る。
それを尻軽ととるか洒脱ととるか。
その軽薄さを含めてファッションなのでは、という思いを強める今日この頃です。


以下、若干の修正を加えた本文です。

normcore ノームコア

服好きがその時々の流行と全く無関係に生きることは不可能で、自分なんかはその流行の中からつまみ食いして自分のフェイバリットリストに加えていってるんだけど、先日(*2014年です)の読売新聞の夕刊で中野香織さんが今後のトレンドとして「Normcore ノームコア」という単語を挙げていた。

その記事を引用する。


2月末に「ニューヨーク・マガジン」が紹介した「次なるトレンド」が、またたくまにインターネットをかけめぐっています。新しい装いは新しいことばとともに。ニューヨーク発の最先端のトレンドは、新語と共に現れました。「ノームコア(Normcore)」です。
ノーマル(Normal)とハードコア(Hardcore)を組み合わせて作られた新語で、いわば、「筋金入りのふつう」。郊外のショッピングモールで買い物をしたり子供のバスケットボールの試合を観戦したりする時に、ふつうの人がごくふつうに着るような普段着。大衆のなかに完全に溶け込んでしまう、バリバリにふつうな装い。
ブランドが一切表に出てこない、ファッションステイトメントのかけらもない、おそろしいほど普通の服。これがノームコアということらしいです。スタイルアイコンは、たとえば、スティーブ・ジョブズ。
多くの人はせせら笑うでしょう。なんだ、私、とっくの昔に最先端だわ~と。
地球上の大半の人はなんの気負いもなく、昔も今もノームコアなのですが、このトレンドのポイントは、ファッション界のインサイダー周辺の人々がそのように装い始めたということ。個性的でエッジが効いたファッションで注目を浴びていたファッショニスタが、集団に埋もれる「ふつう」がかっこいい、と評価していること。昨日までルブタンのヒールをはき、グッチの新作ジャケットを着ていた人が、スニーカーにはきかえてグレーのパーカを着て表参道のカフェにいる、みたいなことなのです。タレントさんのオフですか? 失礼。
見方によってはそれほどバカっぽい話なのですが、多くのファッショニスタがこのトレンドを支持し、話題にしているということに、興味を覚えます。
ファッションで個性を主張しようなどというプロパガンダが行き渡るあまり、見渡せば、どいつもこいつもおしゃれで小ぎれいになり、結局、なんだか同じに見える。みんながみんなファッションに気を遣うあまり、かえって没個性になってしまうという皮肉。そんな砂漠のような虚しいファッションシーンに疲れ果てた人が、ファッションに無頓着な(と見える)ノームコアにほっと安心を覚えるのは無理からぬ話です。そもそも、他人とは違うという個性の主張など、ほんとうに必要なのでしょうか? それよりもこの「シェア」の時代、大勢のなかに紛れ、多くの人々とつながり、同じ目線でなにかを共有することのほうが幸せなのではないか?「他とは違う自分」探し疲れ。いっそ無になりたい。そんな感情の変化がこのトレンドの背後に潜んでいるように感じられてなりません。
とはいえ、歴史家の目でこのトレンドを眺めてみれば、これもまたアメリカらしい「ヒップ」の系譜に連なるんでしょうね。ヒップとは、スラング辞典の定義をかいつまんで紹介すれば、「商業的・政治的および物理的現実のいっさいから離れ、社会的・道徳的関わりからも自由な、真のアイデンティティを守ろうとすること」。
ヒップの反対語は、スクエア。律儀でまじめなこと。たしかに、ファッション誌の教えを守るなんて、スクエアだね。忠実に守ることでアイデンティティの危機に陥ってしまう(=アナタがなくなる)のは自然なことですね。なにが「かっこいい」ことなのかわからなくなった人は、これでも読んで勉強しましょう。
ジョン・リーランド著『ヒップ ―アメリカにおけるかっこよさの系譜学』。
600ページ超の大著です。アイデンティティを守りながらかっこよさを獲得するために、アメリカはそれだけ悩み続けてきたということです。




[Normcore ノームコアの明らかな誤用]


blogネタとして原典も読んでみた。
New York Magazineのコラムが発端のようでhttp://nymag.com/thecut/2014/02/normcore-fashion-trend.htmlが元記事。
さらにその元ネタとなったK-Holeレポートは2023年11月現在もkhole.net/からPDFをダウンロードできる。

確かに中野氏はこの二つをすっきりまとめている。

しかしOriginal Articleを読むと、ファッション界隈で使われ始めた「ノームコア」ははっきり言って誤用だ。

本文中でも「ノームコアは特定のルックのことでなくアティテュードを指した言葉だ」と言ってるし、K-HOLEのレポートの最後にはこんな図が示されてい
る。


K-holeの言いたい「ノームコア」を理解する為に最も大事な図であり、そのためには、周辺概念とでもいうべき
・Alternative
・Acting Basic
・Mass Indie
まで理解しなければ、本質に触れることはできない。

Alternativeを特徴付けるのはEvasion(回避)とsameness(同一性)。
おそらくこれはいわゆる普通の人。
ひとと同じものに安心感を抱くし、ちょっと避けたいなっていう気持ちも当然ある。
どちらかと言えばsameness優位のひとが多いのかな。
Evasion 回避の度合いが強くなってくるととなりのActing Basicに移行する。

Acting Basic、このひとたちの特徴はEvasion(回避)とDifference(相違性)。
いわゆる(常識の範囲内の)こだわりさん。
なるべく他人とはかぶらないものを探している。
他人との同一性を回避して相違性も少し確立できた人たち。
俺は多分ここに属する(と自分で言ってみる)。
ただ、俺自身はべつに同一性を忌避しているわけじゃないので、クリアカットには分類できない様な気もする。

Acting Basicが相違性を突き詰めて称賛を受けるまでになるとこれはMass Indieになる。
Mass Indieってつまりはサルトリアリストなんかに載るようなファッショニスタ(好きじゃない言葉が)みたいな人たちでしょ、多分。

この考え方で言えば、パタゴニア〜、ニューバランス〜とか個々のアイテムの組み合わせでノームコアどうこう言ってる人たちはActing Basicについて言及しているに過ぎない。

K-Holeのレポートではノームコアの特性として「柔軟で他人とうまく関われアイデンティティに固執しない、オープンマインドなひと」となっていて、ひいては服装だって他人と同じでも気にならないという論理展開だ。

はっきりと「彼がノームコアだ」という明言はないけど、そのレポートの中にはジョブズの名前を見つけることが出来る。
だがその考えでいくと彼は果たしてノームコアだろうか。
他人とうまくやることを彼は考えていただろうか(自分の考えに相手を従わせることを「うまくやる」と定義するなら考えていただろう)?
他人との関係性における柔軟な心や、同一性を認める心が彼の中にあっただろうか?
もしスタイルだけを取り上げてジョブズがノームコアだとほのめかしているのであれば、それは大きな自己矛盾だと言わざるを得ない。
だってノームコアは見た目のスタイルじゃない、生きる上での姿勢だと言っているのだから。

K-holeのレポートとはいくぶん解釈が異なってしまいそうだが、ノームコアのいちばん大切なところはたぶん「コア」のところであって、ハードなコアを持ってない限りはどんだけ没個性的なスタイリングをしても全然ノームコアじゃなくて、それはただのノーマル(普通の人)なんじゃないだろうか?と読み取る。

改めて「Hard-Core」を手元の英和辞典で引いてみると「本格的な、筋金入りの、マニアな」といった表現が並んでいる。
ここは「本格的なノーマル」「筋金入りの普通」と訳してもいいんだろうけど、hardcoreがnormalの直接の形容詞だとして原典の論旨と照らし合わせると、俺にはどうしてもそこに漂う違和感を拭い去れない。


”何かに特化した能力を持つ「筋金入りの」「本格的な」人間”が選んだ(行きついた)ノーマルさ

という解釈が個人的にもっともfitする。


ジョブズが近年なしたことのすごさは改めて挙げるまでもない。
世界最大級のハードコアであるジョブズのあのスタイリングがクールに映ったとしても、それは全然不思議ではない。
そう、ちょうど耳の聞こえない作曲家が作りあげた壮大な交響曲が、世界に美しく高らかに響き渡ったように(*注意:当時聴力がないある作曲家が自身の楽曲をゴーストライターに書かせていたという出来事がありました)。

逆にコアさえ持っていれば、そのコアが大きければ大きいほど、付随するものも光り輝く。
コアとはつまり物語のことなのだ。
極めてアブノーマルな物語(=コア)に付随している、(見た目の)ノーマルさ。
その(見た目の)ノーマルさは、コアに引っ張られ光り輝く。
これがノームコアの本質だ。

だからAlternativeの隣にはNormcoreが書いてはあるけど、その2つの距離は相当遠いし、ファッション軸で語る限りそれまできっちりファッション的Mass Indieとしての地位を確立できていない人間がsamenessを採り始めるとそのコアの部分が弱すぎて(周囲が認めるところの)ノームコアにはなれない。

さらに言えば、結果的に到達するのがノームコアであって、意図的なノームコアというのは本来的にはあり得ないことになる。


例を出すなら、(好き嫌いは別にして)中田英寿(=超一流のMass Indie、K-Holeの言葉を借りれば「Mass Indie überelites」)みたいなサッカーなどの業績という意味合いでのコアとファッショニスタとしてのコアを持っている人間が、これまでとは違ってなんてことない格好にたどり着いたのなら、それはまさにノームコアと呼べるだろう。

そして俺が思い浮かべるのは、コレクションの最後に出てくるデザイナーたちだ。
ついさっきまで華々しく煌びやかなスタイリングのモデルたちが闊歩していたランウェイに、まるで休日の朝、家から新聞を取りに出てきたかのような装いの彼ら。
あのコレクションを構成していた洋服群を作った張本人とは思えないほどのシンプルさ。

あれこそがノームコアだ。
服飾の世界でトップレベルに上り詰めた彼らだ。
あんなシンプルな格好をしているのには訳があるに決まっている、きっとあの何の変哲もない服もきっといいものに違いない、といった目で見られることだろう。

逆の例を出そう。
どこかの雑誌のスナップに1〜2回載っただけのようなひと(=differenceの比重が高いMass Indie、もしくはDifference側に傾いたActing Basic)が、なんということはない格好をし始めたら、それは周囲の耳目を全く集めないただ普通のひとに成り下がる。
もちろん彼らが「俺のスタイルはノームコアだ」と自認しても何の問題もない。だが周囲がそう捉えてくれるかどうかは甚だ怪しい。

ジョブズの例をまた使うなら、そこら辺の名もなきおっさん(=Alternative)が黒タートル(たとえそれがイッセイミヤケ製であろうとも!)、リーヴァイス、ランニングタイプのニューバランスを身に着けていても、非難されることはないにせよ少なくとも称賛を受けることはないだろうし、こうやって誰かのレポートに名前が挙がることは決してない。

両者ともにそこには誰の目にもわかりやすいコアが見当たらないからだ。

結局のところ、ファッションとしての個性をどんなに消し去ろうとも、非ファッション的個性からは離れられないというこのジレンマ。
ファッション軸から離れれば離れるほどにむしろ非ファッション的個性の強度を必要とする。

同一性を認める(どんなに頑張ったところで自分と他人にそれほど大きな違いがないということを生きる上での基本認識にする)という精神的スタンスは、個人的にはけっこう大事だなとは思うけれど。


[そしてノームコアは一人歩きを始める]
上で述べたように、目立たない格好をしたからといってそれがすなわちノームコアでは全くないんだけど、この生き馬の目を抜くファッション業界ではそんなのは大した問題ではない。

未来の決して明るくないように見えるアパレルの世界は、たぶん次のトレンドを常に探し続けている。
今までの日本なら多分シティボーイだ(2023年の今見ると死語だな)。

そこにやってきたノームコア。

どんな誤用だろうが誤解釈だろうが、今ファッションはノームコアという耳障りのいい、しかも敷居の低そうな素敵な言葉を手に入れたのだ。

このキャッチーなタームは、誤ったまま一人歩きを始め、ウィルスのように拡散し、トレンドとなるだろう。

これまでだってちゃんとあったけど言語化されていなかったスタイルがノームコアという単語になり可視化した途端、トレンドという形で消費され始める。

自然発生的なトレンドも確かにあるんだろうけど、ほとんどのトレンドには仕掛人が多分いて、このノームコアも若干作為的な何かを感じる。

K-HOLEもCutもこのノームコアの誤用と一人歩きすらも予想していたとしたら?

多分これからアメリカでは上辺のスタイルとしてのノームコアが少しずつファッションインサイダーたちに浸透していく。

そしてすぐに消費し尽くされて飽きられて、どっかの媒体が「やっぱり(わかりやすい)お洒落が好き!」みたいな特集を組むところまでが予定調和的にもう透けて見えてる。

それすらも俯瞰してみるなら、その誤用が独り歩きして広まる様こそ、とてつもなくモード的/ファッション的であって、逆説的にファッションとしては正解であるとも言えるかもしれない。

「ノームコア≠ノームコア的スタイル」という方程式が「ノームコア≒ノームコア的スタイル」に浸食され、やがて「ノームコア=ノームコア的スタイル」に完全に置き換わるまで大して時間はかからないだろう。
というか、始まりからすでにそうなっている。

思想的にアナーキーでもなく音楽ジャンルとしてのパンクをやっているでもないパンクス的スタイルの人が「パンクス」と呼ばれるように。

そんな変化が見られる前に、スタイルとしてのノームコアがあっさりと退場してしまう可能性だって十分にあるのだけれど。


[誤用ノームコア=GO OUT+BEGINなんじゃね?]
社会的クラス=階級の存在しない、人口総ノームコアと言っても言い過ぎではない日本では、すでに購買層もマーケットも存在しているわけだけど、要は定番品とアウトドア着てりゃノームコアになんだろうと思う。

雑誌で言えば、GO OUT+BEGINあたり(この例えに2023年のいま、汎用性があるかどうかはさておき)。

だってユニクロはなしでしょ?
みんなとの同一性を謳っておきながら普通に見えて実は普通じゃない服じゃなきゃダメでしょ?
そしてその部分を「ハードコア」だと勘違いするんでしょう?
「普通に見えるけどね、このスウェットはね吊り編みでホールガーメントで手染めで特殊染料で」とか喜々として身に着けてる服にまつわるエトセトラを語りたいんでしょ?

俺は全然ノームコアじゃないけど、物語のある服が着たい気持ちはやっぱりあるもの。

それを一般に敷衍して語るなら、やっぱり(歴史のある=物語を包含する)定番品とアウトドアがわかりやすくて手軽じゃん。

もうちょっとだけファッションリテラシーがある層に訴えかけるなら、ハイブランド以外の多くのブランドはすでに(誤用)ノームコア的だからそれを選んだっていいと思うけど、ぱっと思いつく範囲でYaecaとかマーガレットハウエルあたりはこれから起こるかもしれない「ノームコアマーケティング」とでもいうべきものに大いに利用されていく気がする。


[やっぱり最後は自分]
結局のところどう言い繕ってもノームコアって、他人との同一性を認める、という観点が逆説的に他人との関係性から離れられてなくて自意識過剰。
いや自意識過剰は全然問題じゃない。
俺だって他人から見たら過剰な自意識のかたまりに見えるだろうし、事実その通り。

要は、そこをうまくカモフラージュするために、自分を偽る為にノームコアなんて言葉をスケープゴートにするべきじゃないってことだ。

ほんとにノームコアりたかったら、何かに没頭して光り輝くハードコアを得て、その過程で洋服なんて気を遣ってる余裕はないから全身ユニクロにするしかない。

ユニクロは極論だけど、何かを突き詰めていける人間は何事においても定型が自分の中に自然発生していくことが多い。

ハードコアを手にできる人間が持つ美学が服装というジャンルで結晶化して表れたものこそノームコア的スタイルだ。

それが出来ないくらいならこんなまやかしのトレンドに乗ってノームコアのふりなんかしないで、素直に「洋服が好きだ!!」と叫んだらいいんだと思う。


いつだってファッションは螺旋を描いて進んでいく。
ある方向に振れれば、同じ強度で逆のベクトルに振れようとする。

どんな時でも大事になるのはやっぱりその螺旋の中心にまっすぐと立つ、価値観という軸なのだ。

その一方で人間なんてすごく不安定で二義的な存在なんだから、時にはトレンドに乗ってもいいし、どこまでも突っぱねる権利もあるし、もしくはそのときどきのトレンドすべてに乗っかるのだって立派なポリシーかもしれない。

そういうたくさんのことを飲み込んだ上で他者の多様な価値観を認め、自己と他者の同一性、相違性を認めて生きていくべきだ。

そういった姿勢になにかとくべつな名称がついていないからといって、個人的には何の痛痒も感じないし、世界はちゃんと進んでいく。



[後日追記]


先日ノームコアの記事が某カリスマファッションブロガー/ツイッタラーの方がツイートしてくださったことにより、一時的にアクセスがいつもの3倍ほどに跳ね上がりとてもびっくりしました。
でもいろんな人に読まれてうれしかったです。
見ていらっしゃらないかもしれませんが、この場を借りてお礼を申し上げます。
ツイートしてくださってありがとうございました。


表題にもあったようにたまには時事ネタでもやってみるかといくつか購読している新聞の中の読売から題材として取り上げただけで、ノームコアに大してそこまで思い入れはないのでたぶん記事にするのは最後です(と言いつつ、もし雑誌なんかが本格的に取り上げ始めたら僕そんなこと言ってましたっけー?と口笛を吹きながらまた全力でネタにする。アクセス乞食なので)。

あまりない経験だったのでエゴサーチもかけてみましたが、アルファツイッタラーの影響力とネットの拡散力ってほんとすごいんですね。

ただ、思った通り本当にほとんどの人が原典にあたることなく「ノームコアガー、のーむこあがー」って広まっていく様子は驚異的であり、大半はActing Basicと混同しているように見受けられました。

そもそもCutの記事を書いたフィオナダンカンもノームコアをファッションとして読み替えしちゃってるし、そりゃいろんな風に読み取られるよな。

僕自身も当然さまざまに解釈しながらキャーキャー言っているそのなかのひとりにしかすぎないことは当然自覚していて、結局のところK-Holeの元レポートを読み込んでもcut周辺の関連記事を読んでみてもNormcoreの本質というかどういうひとたちがノームコアなのかいまいちつかみきれていません。

でも「人との違いを追求したってそこには限界があるし大した違いも生まれないから、同じになることを恐れるな、普通なんてものはそもそも存在しないんだ、フレキシブルにいこうぜ、それがノームコアさ」ってことなのか、うん何も言ってないに等しいわっていう、一応そこまでを自分なりに読み取ったうえで、超拡大もしくは誤解釈とわかりつつも、おしゃれさのかけらもないジョブズをわざわざ引っ張り出してネタにするモード(流行という文脈での)の世界の在り方に、小さく中指を立ててみよっかな、非ファッションさえもファッションに取り込ませようとする軽薄さに小さな声でノーと言ってみようかなというのがあの記事の僕なりの意図でした。

というのも、服って、ファッションである前に「衣食住」の「衣」という人間の生活にとっての大前提で、ものすごく大事なものだと思っているからです。
わざわざ服以外のいろんな意味を付与しようとして(それがダメなわけではないし、むしろそこもファッションの面白いところなんだけど)、他の芸術に追いつこうともがいているように見えるけど、服そのものが十分自己完結的・自立的存在だと思っていて、こういう整合性のないトレンドの捏造(はちょっと言い過ぎかな)はかえってファッションの地位を自ら貶めている気がしていて。

K-holeの原典から大きく外れないで解釈すれば、ノームコアには定型スタイルなんてものはなくて、個々人が追求していった先にある「これこそ自分のスタイル」(たとえそれが大衆にうずもれてしまうようなスタイルだとしても、その姿勢こそがhardcore)というものを持つ人種こそが、世間の誤解と理解の最大公約数的ノームコアなんじゃないかなと思っています。

結局中身がどういうものであれ、そしてそれが正当に解釈されたものであれ誤解であれ、ノームコアなんて初めからしっかりとモードの中に位置づけられるいち亜系でしかなく、また次のムーブメントに上書きされていくんでしょうね。

村上春樹は「理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない」と言っていますが、そもそも世界のあらゆる事象は相対的で、理解も誤解ものみこんでいくファッションってつくづく面白いなと思っています。

だからいくつになっても服が好きなのかもしれません。

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