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無限かつ複雑なことを取り扱う場合のルール

     「刺さる言葉」

どんな言葉も、それが知識になるか、行動を促すか、しか役に立つことはない。
そのため、言葉の意味(mean)は、知識になるか、行動を促すかの2通りしかない。

     「第1法則と第2法則」

Beingは、最も大切なものである。
それであるから、歴史上、基本的人権を作り上げたとも言えるだろう。

マズローの欲求 5段階説

また、樺沢紫苑さんのいうように、脳内ホルモンは、セロトニン、  オキシトシン、ドーパミンとあれども、その基盤となる生理的欲求、安全欲求、社会的欲求を満たすためのものであると考えられる。これがBeingの話である。
これらが第1法則であり、これがなければすべてはダメになる可能性さえあるものだといえる。
 次に第2法則に移ろう。
これは、Doingがその真偽を問われ、can  doとして扱われるか、その結果の如何を問わない不明な真偽である場合には、それが正しいか、正しくないかを問われ、最終的にDone、どうなったか、どうであったかを問うかたちになる。
これらを仮に第2法則と名付けよう。

⑴第1法則 let it be
生理的欲求、安全欲求、社会的欲求のような基盤となる人権や存在意義がBeingである。

⑵第2法則  let it go
承認欲求、自己実現欲求、自己超越のような行動や知識獲得などがDoingである。

⑶真偽が判定可能なら、できるかできないかを問う、それが不明なら、正しいか正しくないかを問う

⑷最終的に、どうであったか、どうなったかを問う

 「全体と部分の整合性を保ちつつ、                  
    部分と全体を分離することの難しさ」

全体の戦略と個々の戦術を矛盾することなく、表現することは、難しい。
 また、そのようなことができたとしても、部分と全体を分離しつづける抽象と具体の切り離しは、さらに難しいものである。

⑴全体の戦略を個々の整合性を矛盾なく表現することはむずかしい

⑵個々の戦術を全体の戦略と分離することはむずかしい

「無限かつ複雑な情報を取り扱うときのルール」

情報が至って、単純なものであることが認められる場合がほとんど、日常ではあたりまえである。
しかし、それがすぎれば、情報は複雑かつ無限性を持たないければ、意味をなさない場合に遭遇するものだ。
 少々無理にこれを説明すると、雨が降れば傘をさすものだ、という単純な情報がやがては、いつ降るかわからないため、折り畳み傘や、AI天気予報をみたりして、傘をさすか決めるなどするだろう。
 このように、「雨が降れば傘をさす」という単純であった情報も、いずれは「いつ傘をささなければならないか」という複雑かつ無限性を保つ情報へと深化するものだ。複雑であるということは、未知を含むということでもあろう。
 この場合に限っての答えを導き出せた。

①私的条件が無限であって良い場合で、有限に扱うときは、一定に取扱う

②私的条件が無限であってはいけない場合で、有限に扱うときは、縮小させる

これらは、無限と複雑を扱う場合に限っての条件である。
 余談であるが、無限を取り扱う場合、無限に取り扱うことは、危険である。というのも、それ自体が不可能であるからだ。というより特殊な事例であるといえる。

例えば、このような事例がある。

事例その1

過去、あるピアノの演奏会で大失敗した。
過去を悔やんでいる。あのとき、そのような演奏をしなければ、今は、幸せだったに違いない。

この事例において、過去は、ある種、無限な可能性帯びている。つまり、過去は変えれらないのに、解釈は、無限に通りを持つことになる。
 例え、過去がその時のその瞬間であったしても、解釈が無限にあるところに注目すると、この場合、無限の解釈をしている、ことになる。
 これは、一般的な悩みであるとえる。
しかしここで、あるひとは、ニーチェの永劫回帰の思想に驚きの解答を見出すことになったのだ。
 彼女は、なんと、その無限の過去に対して、無限の人生を永劫回帰によって頭の中で無限を衝突させることで悩みが消えたそうだ。

ここでは、無限の過去に無限の人生を拡大しぶつけて悩みを解消した良い事例であったが、普段、このような悩みはしないものであるから、無限を無限で取り扱うのは、稀な例である。
 むしろ、健全に生活するためには、無限を有限な形で取り扱うことが普通である。
そのため、無限は、有限に扱うことが通常であるとした。

  「健全に物事を扱うための条件」

⑴無限は、通常、有限に扱うもの
(日常

⑵無限を無限で扱う場合は特殊事例
(悩み

さて、「無限であってよく」と、「無限であってはいけない」という私的条件が、なぜ、一定と、縮小で扱わなければならないかが問題とされていた。ここで、無限であってよいものは、例えば、レベルがある。英語や数学などの事例で、例えば、ある一定のレベルに達しても、まだまだ、上には上がいる。そんな状況である場合において、無限にあってよくというものに該当する。
 対して、無限であってはいけないものというのは、その限界が自分の能力内であることがほとんど明らかである場合において、無限であってはいけないものに該当する。
 例えば、一度、とんかつ定食をつくることができたとする。この場合、確かに次作れるかわからない。この場合のように、無限であってはいけないという表現になるというわけだ。

⑴私的条件が無限であってよく、有限に取り扱う場合には、一定

例;FOR型を有限にあつかう事例
英語ができるやつはわんさかいる。そのため、英語ができるやつは、無限にいる。
しかも、英語が完璧にできても、英語だけで何かを成すことはむずかしいものだ。
そのため、一定量、習慣化して覚えていこう。(一定


⑵私的条件が無限であってはならない、有限に取り扱う場合には、縮小

例;TO型
ある料理や、ある問題ができた。しかし、明日またできるかわからない。したがって、できない可能性が無限にあるが、そうあってはならないので、できるまで努力する。(縮小


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