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成果主義と生産性

「成果主義・結果主義・合理主義について」

第1章 外的条件と合理主義と、労働

外的動機に目を向ければ、社会においては標章法の「利益なければ訴訟なし」という公理からもわかる通り、内的動機なるものと対になるこの動機は、成果主義、結果主義、合理主義を採用することになる。
というのも、具体的事例から挙げられるとすれば、家族においても、利益が上がらないような者は、「鬼は外、福はうち」というように、排斥される。
しかし,いくらなんでも、それが外的条件に一致するかというと、そうではない。
例えば、家庭で、草刈りをしたり,家事をしたりしても、外的要因が満たされない場合がある。
(この場合の外的要因は、お金や、容姿、学力といった、外的動機に基づく、いわゆる目に見える利益や、あからさまなことを指し示す)
いくら、家事をしても、草刈りをしても、一銭の利益もない場合には、外的要因、外的条件を満たしたことにならず、この場合には、「鬼は外、福はうち」の公理から、鬼として、外に排斥されることになる。しかし、このような外的要因や、外的条件が、必ずしも正しいということにはならない。
これを判例のように考えると、例えば、草刈りを頼んだ場合、1時間あたり1200円の時給を支払わないければならないが、この草刈りの時間が、10時間であったとし、年間4回これを行うものとして、12000円×4=年間46000円支払う羽目になる。
しかし、この鬼として,排斥された者が、30000円の草刈り機で、毎年、草を刈っていれば、5年で23万円かかるところが、たったの30000円で暮らせたということになる。このように考えれば、外的要因や、そうした環境要因、環境要件・外的条件に一致しないからといって、必ずしも、この者が、鬼として排斥されるか、というとそうではないということになる。
では、この環境要因・環境条件・外的条件が1番重要な条件であることになる。
この場合の事例からも、わかる通り、外的条件がいかに重要であり、かつ、この人の良いが稼ぎの悪い者を排斥することが合理的にみて、悪いということがわかる。
なぜなら、事実、年間この者の働きによって、46000n−30000(n=年数)の損失を実際に行われているということだからだ。
その損失は、5年で、20万円にもののぼる。
(20万円とは、3人家族だと食費100万円ほどと平均してあり、その5分の1に相当する)
このように、外的条件だけ、合理的な判断ができないということの事例を述べた。


第2章 生産性と成果主義、仕事

第1章では、合理的にみても、外的条件なるものが、重要な意味を持つということであった。
しかし、それだけでは、生産性と成果主義という観点から、仕事を語ることはできない。
世間や、世論といったものを考えて動かないと、いけない場合もある。
例えば、3年間の勉強で、上位資格を取得し、年間700万円の収入が毎年入ってきたとする。
この場合の生産性は、この者が3年間で3000時間、年間1000時間、1日あたり2.7時間を要して、100万円だった収入が7倍の700万円になったとする。
この場合の結果主義を採用すると、勉強のリスクが1日3時間程度であったことを考えると、通常成功した、結果が残せているということになる。
生産性は、この者が仮に、4時間で働いて、100万円だったことを考えると、7時間で100万円だった生産性は、8時間で、700万円にアップしたことと言えるから、生産性は、7倍に上がったことになる。
またこのことが、社会や、世間、世論から言って、正当かつ、認められ得る仕事とみなされ、賞賛される働きぶりであることが、証明されれば、このものは、結果主義の観点から、成功したとみなすことができる。
また、労働は、45年しかないと考えると、仮に、プランA;4時間労働で、3時間勉強している100万円の収入であるプランと、プランB;8時間労働で、700万円の労働をひかくしてみると次のような計算式になる。

A;6300時間労働と勉強して生涯に4500万円

B;資格勉強3年3000時間で生涯に3億1500万円
労働時間は、6720時間である

プランAとプランBの差額は、2億7000万円だとわかる。この生産性は、7倍に相当する。

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