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コミュニティは、個の空間が保証されてはじめて成り立つ

日々コミュニティについて考えている中で最近気づいたのが、よく言われる『コミュニティの余白』のひとつは、個の空間としての余白なのではないかということ。

コミュニティというとつい『人をつなげなければ』『コミュニケーションを発生させなければ』と考えてしまいがちですが、コミュニケーションを強制されると人は疲れてしまいます。

だからこそあくまで個としての空間が基盤にあった上で、みんなが集まる場所へ "選択的に"行けることが重要なのではないかと思うのです。

例えばシェアオフィスにしても、コミュニケーションやつながりを強調されるとプレッシャーに感じますが、快適に作業できる個の空間があった上で、気分転換に訪れることができる公共空間がある方が、結果的につながりが生まれやすいのではないかと私は考えています。

『個の空間の保証』はスペース設計だけの問題にとどまりません。

私はイベント後の交流会があまり得意ではないので、自分が主催するときには交流会ぼっち問題を仕組みで解消できないかよく考えるのですが、最近ひとつ意識しているのは展示物やブースなどを置くことです。

例えば登壇したブランドの商品であったり、関係者の著書やおすすめ本など、手持ち無沙汰なときになんとなくその空間にいる言い訳のようなものがあると話し相手がいなくても居心地の悪さを感じることなく、さらに会話のきっかけになることもあります。

これはオンラインにおいても似たようなことが言えると思っていて、コミュニケーションが加熱すると必ず誰かが疲弊したりどこかでトラブルが起きたりします。

だからこそ、あくまでコミュニケーションがなくても個々人が満足していることを前提として、付加価値としてコミュニケーションがある、くらいのバランスがちょうどいいのかなと。

昨年NewsPicksの特集で書いたアットコスメの吉松社長へのインタビューでも『コミュニティとコミュニケーションは違う』という言葉が出てきたのが印象に残っています。

人との交流は一般的に『いいもの』とされていますが、人と人の間で生まれるものだからこそ常にいい状態であり続けられるわけではありませんし、自分自身の興味関心も移り変わっていいきます。

そんなときにある種逃げ場や休憩地点として個の空間が保証されていること、そしてコミュニケーション量が減ってもその空間に満足できることが長く続くコミュニティにとって重要なことなのではないかと思っています。

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今日のおまけは、中国におけるラグジュアリーECの動きについて。あっというまにどんどん勢力図が変わっていることを感じます。

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