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幸せの青い鳥は、なぜカゴの中にいたのか

「幸福とは何か」を考えていたとき、ふと気づいたことがある。

それは、「私は幸福になろうという動機で動いたことがないのかもしれない」ということだ。

より厳密に言えば、一般的な定義における幸せがどういう状態なのかが体感値として理解できていないので、 "幸せ"という概念を目指したことがない。

私の行動原理は常に「発見の喜びを得ること」だと定義しているからだ。

どんなに周りから羨ましがられる環境にいようと、学びがなければそれは私の幸福には一切寄与しない。

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世の中にはたくさんの「身につけるべきこと」が溢れているけれど、私はそもそも論として一番大切なのは自分の幸せを定義する力なのではないかと思っている。

出世の階段を昇り続けること、有名になって巨万の富を得ること。

そうした上昇志向が必ずしも幸せをもたらすわけではないと、私たちはすでに理解している。

一方で、人間が変化を求める生き物である以上、安定した幸福にはいつか飽きるときがくる。

人生の中でどういう変化が起きると自分は喜びを感じ、幸福を得ることができるのか。

その方向を知っておくことは、幸福の近道ではないかもしれないけれど少なくとも不幸にはならずにすむ。

本当は責任なんて負いたくなかったのにうっかり出世してしまったり、バッシングに耐えられる強さを持っていないのに誤って有名になってしまうことは、まわりから見れば幸福でも本人にとっては不幸以外の何ものでもない。

しかも、それらは一度得てしまったらなかなか手放すことのできない類の不幸だ。

さらに言えば、まわりから「あなたは幸福なのだ」という目で見られることで、本人はその不幸に気づけずにいることも多い。

世間の基準には迎合していないつもりでも、周りにいる人たちからの評価を自分の価値観にすり替えて自分を納得させていることは往々にしてあるものだろう。

ただここで重要なのは、得たいものを抽象化して捉えるということだ。

例えば、「家族がほしい」と思ったとき、結婚して子供を産んで…と一般的なルートのみに凝り固まって考えていると、どこかのステップで失敗したときにリカバリーがきかなくなってしまう。

「自分にとって家族とは何なのか」「何をもって家族とするのか」と抽象化して定義することで、結婚や出産以外の道が見つかることもあるだろう。

幸福は人の数だけあるけれど、不幸を回避する道はただひとつしかない。

「これしかない」という選択肢のない絶望に陥らないことだ。

自分の人生に選択肢をもつ。

そのために、コンパスとして幸せの定義をもたなければならないのだろうと思う。

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チルチルとミチルが家に帰ってくると、そこには探し求めていた幸せの青い鳥がいた。

この寓話の教えは「幸福は身近なところにある」と表現されていることが多いけれど、私は彼らが冒険の結果として幸せを幸せだと気づくフィルターを得たということの方が大事だと思っている。

もともと飼っていた鳥が青い鳥に「見える」ようになったのは偶然で、彼らが別の幸せの定義をもっていたならば、もう一度冒険の旅にでなければならなかったかもしれない。

幸せの青い鳥はいつも家にいるわけではなく、ときには捕まえにいかなければならないときもある。

ただ、自分が探すべき青い鳥がどういう姿をしているのかは、事前に知っておく必要があるということだ。

自分の幸せを定義する。

それが幸せのための第一歩なのだろうと思う。

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