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誇張とフェイクの境界線

2、3年前から問題になっているフェイクニュース問題ですが、実は悪意ではなく善意に由来する誇張こそが根深い問題なのではないかと思っています。

先日、地域格差をテーマにした記事が話題になりました。

私も田舎出身なので記事の内容に賛同しつつ、釧路はおろか北海道にすら行ったことがないので、田舎にもいろんな場所があるんだなあ、と思っていたところ、当時の記述が一部事実とは異なる可能性があるという指摘があり、こちらもまた話題になっていました。

※近隣の美術館数や大学の所在など具体的な事実に基づく反論はTogetterにまとめられています

今回の記事は地域格差への問題提起としては大きな意義があるものの、その問題提起のために極端な表現をすることの是非についても同様に示した事例のように思います。

ちなみに、前述の記事の反響を受け、筆者は続編で下記のように弁明をされています。

この「都会と田舎の格差を訴える」という最優先の目的を達成するにあたり、私は田舎と都会を、いわばイチゼロで語る方針を採った。そのようなわけで、いきおい、田舎には大学も書店も美術館も学習塾も「ない」のだ、それをまずは知ってほしい、という断定的な表現を多用することになったのだ
(中略)
この謝罪によって、「ほら、やっぱり田舎にだって大学も美術館もあるじゃん」ということにされてしまう事態を私は懸念している。「田舎にも〜がある」という事実は、それが都会に「ある」という事実とは、まったく比べ物にならない、ということを強調しておきたいと思う。(大反響「底辺校出身の東大生」は、なぜ語られざる格差を告発したのか

重ねて主張しておくと、私も田舎育ちなのでこの記事を書いたときの気持ちは痛いほどにわかります。

東京に限らず、政令都市以上の都市に生まれ育った人たちは、自分たちがいかに恵まれた場所で育ってきたかを理解していない。
その悔しさも十分にわかっているつもりです。

しかし、ここでの適切な表現は『ない』ではなく『東京のものとは比べ物にならない』だったのではないかとも思うのです。

特に今回は筆者の『研究者』という肩書きが、情報の正確性やファクトをもとに話すことが期待される職業だったことも大きな反響を呼んだ原因かもしれません。

とはいえ、個人的な体験を綴るのにどこまでファクトを検証するべきか、マクロの数字を見るべきかというのは難しいところでもあります。

悪意はなくとも人の記憶というのは変質しやすいものですし、あくまで個人の体験をもとに地域格差を語るというテーマ設定だった場合、私が筆者だったとしてもそこまで細かく数字をみて書くということはしなかっただろうと思います。

強いていえば担当の編集者がファクトチェックをすべきなのかもしれませんが、Webメディアの場合は新聞社や出版社とは異なり専門の校閲チームをもっていないことも多いので、すべての記事のあらゆる箇所に目を光らせてファクトチェックをするのはなかなか現実的ではないという問題もあると思います。

私も常日頃こうして記事を書いている身として、印象論だけで言葉にしないこと、数字を出すときは一次情報に当たることなど気をつけてはいても、日々の更新の中でおざなりになってしまうこともあり、反省した一件でもありました。

特に今は個人が発信できるようになってしまったからこそ、悪意によるフェイクニュースではなく、よかれと思って発信したときのちょっとした誇張が結果としてフェイクニュースにつながってしまったり、尾ひれがついてまったく異なるかたちで拡散されてしまう可能性も孕んでいます。

最近Twitterを見ていて思うのは、例えば『こんなことがあった』という4コマ漫画がよくバズる傾向にありますが、それが本当にあったことかどうかは本人以外にはほぼ検証不可能だということ。

もしかしたらちょっと誇張しているかもしれないし、登場人物はそんな発言していないかもしれない。

ちょっとした日々のことであれば問題なくても、社会問題に関わることだった場合、その発信が思いもよらぬ影響を与える可能性もあります。

とはいえ、ひとりひとりが発信の度にファクトチェックをするわけにもいきませんし、受け手として『一次情報にあたる』を徹底することが自分の身を守るということなのかもしれません。

タイトルの『誇張とフェイクの境界線』については私の中でも明確な答えがあるわけではなく、ふわっとした着地なのですが、今日はそんなことをぐるぐると考え続けた1日でした。

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