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学ぶごとに、人はもっと優しくなれるはずなのだ

『まなび』は私を構成する言葉のひとつだ。

物心ついたときには読書が一番の楽しみになり、自分の気づきを周りの大人に『先生、あのね』方式でいちいち報告し、不思議に思ったことは誰彼構わず『なんで、なんで』と質問責めにするような子供だった。

わからないことは知りたい、わかったことは誰かに伝えて共有したい。

幼少期に育まれた好奇心と発信欲が今の自分を作っていると言っても過言ではない。

しかし、その純粋な好奇心によって蓄積された知識や思考が思春期特有のプライドの高さや万能感と結びついたとき、学びの本来の意義を歪ませてしまうことがある。

知識はそれ自体に善悪があるのではなく、使う人間によって善にも悪にもなるのだ。

私はもともとの負けず嫌いな性格も手伝って、異なる意見をもつ人や理解できないことに対して『自分の見ている正しい視点』を押し付け、相手の意見を変えさせるために知識を使っていた。

しかし真に教養ある態度とは、自分の意見と同じだけ相手の意見も尊重することのはずだ。

知識によって得られる『強さ』の面しか見ていなかった私は、そのことに気づけていなかった。

強さの中にあるはずの『優しさ』を忘れてしまったとき、その強さはただの凶器になる。

社会で勝ち抜くための武器としてしか認識せずに学びを得て行った先に幸福も安らぎもないのだと気づくのに、私はだいぶ時間がかかった。

これまで知らなかった世界を知ること、新しい知識を得ることは、戦うための武器ではなく、世界を柔らかく受け止め、愛をもって生きるための力だ。

私たちには動物として闘争本能が備わっているとはいえ、それを知力で超えようとする営みこそが人間らしさにつながっていくのではないかと私は思う。

世界は複雑で、問題も山積みで、理想に対する距離の果てしなさにときどき絶望しそうになることもある。

一方で、学べば学ぶほど世界は美しく、確実に前進し、優しさに満ち溢れていることにも気づく。

最近ハマって読んでいる『阿・吽』の中に、こんなセリフがあった。

「正義」が振りかざされた時、人が死ぬ!
善悪などない。正義などないのだ。
二分は常に対立をうむ!犠牲を出す!
どちらに付くかではない。
…人が死なない道を行く。

まなびから得た強さは、他者と対立し、相手を屈服させるためにあるのではない。

その強さは本来きっと、すべてを優しく包み込むためにあるはずなのだ。

だからこそ私はより多くのものを包み込むための強さを得るために、ひとつでも多くのことを学び、考え、具現化していきたいと思うのだ。

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