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最高の恋人⑵出会い


 「菜々子、ちょっと玄関に来てごらん」
 祖母が書庫の扉を開けて菜々子を呼ぶ。
 菜々子は読みかけの本を閉じ、祖母の後ろをついて長い廊下を歩く。
 昭和の初期に建てられたという父の実家は、神戸の御影にある高級住宅地の一角にある。手入れが行き届いていて、建物の突き当たりに書庫が建て増しされている。廊下には、真夏の厳しい暑さを忘れたかのように、ひんやりとした空気が漂う。
 高い天井の玄関ホールに着くと、一人の少年が立っていた。
 「菜々子、隣りの家に住んでいる達也君だよ。
 小学校六年だから菜々子より四つ年上だね。
 夏休みの課題を書庫にある本の中から選びに来たんだよ。
 本に詳しいから菜々子もいろいろ教えてもらうといいよ」
 達也と呼ばれた少年は、菜々子を見てちょっと会釈するようなしぐさを見せた。
 「さ、たっちゃん、あがって。菜々子と一緒に本を読むといいよ。あとで飲み物とおやつを運んであげるからね」
 祖母はそう言って少年を中に招き入れた。
 彼は黙って靴を脱ぎ、菜々子に見向きもせずに廊下を歩いていく。
 菜々子も慌てて彼の後ろをついて行った。

 「へえ、トールキンの指輪物語、読んでるんだ」
 部屋の椅子に座りながら、彼は、菜々子が手に持っている読みかけの本を見て言った。
 「これ、僕の大のお気に入りなんだ。面白いでしょ? ホビットも読んだの?」
 「ううん、それ、なあに」
 菜々子は、そっと達也のそばに座った。
 すると彼は、壁一面に備え付けてある本棚のある部分に行き、迷うことなく一冊の分厚い本を取ってきた。まるで本棚のどこになにがあるのかを全て把握しているようなしぐさだ。
 「ほら、ここに出てるでしょ? 指輪物語の主人公のおじさん。この人が指輪をどうして持ち帰ったか、その物語が書いてあるよ」
 そう言って手渡してくれた本の表紙には、「ホビットの冒険」と大きく書かれた文字に、指輪物語と同じシリーズだとひと目でわかる挿絵があった。
 「ありがとう」
 菜々子はパラパラと捲ってみた。
 すると見慣れた作者の挿絵があちこちに描かれている。
 たちまち菜々子はそばにいる達也のことなど忘れたかのように物語に没頭していった。

 「菜々子、たっちゃん、おやつでも召し上がれ」
 祖母の声でハッと我に返った。
 顔をあげると彼がいない。見渡すと書庫の隅の外国の本ばかり置いてある棚の前で何かを一生懸命読みふけっている。

 「またその本を読んでいるのかい? たっちゃんはその本が好きだねぇ」
 「だってギリシャ神話の挿絵がとてもキレイなんだ。
 それに物語がとても面白いんだ」
 「でも英語は読めないだろ」
 「おばあちゃん、僕、アメリカンスクールに通ってるんだよ。これぐらい簡単に読めるよ。
 お父さんの仕事が貿易だから、家には外国の人がいっぱい出入りして、英語で会話もするし」
 「ああ、そうだったね」
 祖母は、オレンジジュースとケーキを載せたトレイを、小さなテーブルに置いた。
 「ここに置くから、適当にして食べなさいよ」
 「うん、わかった。ありがとう」
 彼は、まるでいつもそうしているかのような返事をした。

 菜々子は不思議だった。
 このお兄ちゃんは、私よりおばあちゃんちによく来ているのかな。

 「お兄ちゃん、おやつ食べようよ」
 「うん」
 彼は、本を開いたまま床に置き、菜々子の方へとやってきた。
 「僕、久世達也。たっちゃんでいいよ。菜々子ちゃんでしょ?」
 「うん、どうして知ってるの?」
 「いつもおばあちゃんが言ってるもん。横須賀に住んでるんだよね」
 「うん」
 「じゃあ、おやつ食べよっか」
 そう言って達也は本を置き、部屋の中央にある小さなテーブルの椅子に座った。
 菜々子も本をその場に置いて達也と並んで腰かけた。
 一人っ子の菜々子は、本当の兄が出来たような気がして、そばにいるだけで楽しかった。
 それから4年、菜々子が中学になるまでの夏休みと冬休み。
 帰省をするたびに達也は毎日のように訪ねてきて、ニ人で時間を忘れて読書にふけった。
 高校に入った達也は、身長がぐんと伸びて大人びた顔つきになった。
 そんな彼に休みごとに出会う度にいつしか恋心を抱くようになっていったのは自然のなりゆきだったかもしれない。
    しかし、中学生になった菜々子は、クラブや塾に忙しくなり、自然と祖母宅から遠のくようになってしまった。

    連日、高校の夏期講習に通う菜々子をあざ笑うかのように、早朝から強い日差しが頭上に降り注いでくる。
 教室の冷房をどんなにかけても窓際の席に座る菜々子には、冷気が届かない。うんざりするような高校1年の夏だった。
 学校の英語の課題にトールキンの「ホビット物語」の原文を訳すものが出されて、菜々子は再び達也を思うようになった。
 物語を読み進める度に、昔の彼の面影が思い出され、二人で過ごした日々が甦った。
    祖母から、達也は家の事情で東京に転居し大学に通っているはずだと聞かされてからは、いてもたってもいられなくなった。
 この東京にいる、と考えただけでひと目会いたいと思った。
 祖母から教えられた大学の寮を訪ねてみると、そこは引き払ったあとで転居先がわからくなっていた。
 たまたま彼と親しくしていた隣人からアルバイト先が新宿の紀伊国屋だと聞き、八月のある日、学校帰りに立ち寄ってみる事にした。
 いつも行き帰りを一緒にしていたミナに、今日は本屋に行くから一緒に帰れないと言うと彼女もちょうど買いたい本があるからと言う。   
 菜々子は仕方なく、事情をかいつまんで説明した。
 今日、もし会えなくても明日も来てみよう。
 彼にはどうしても会いたい。
 その気持ちだけで胸がいっぱいだった。
 
 本屋のサービスコーナーにいる店員に彼の居場所を尋ねると今日はお休みだという。明日の午後なら来ているというので出かけ直すことにした。
 ミナは残念そうな顔をした。
 「明日はさ、クラブがあって来れないから、彼に会ったら写真を撮って携帯に送ってよ。見てみたいんだもの」

 次の日、菜々子は一人で再び紀伊国屋に立ち寄った。
 店員に尋ねると達也は美術書のコーナーで棚卸しをしていると言う。

 「すみません、久世さんはいらっしゃいますか?」

 書物の入れ替えをしている店員の背中に菜々子は声をかけた。

 「久世は僕ですけど」

 振り向いた男性の顔は、あの頃よりもずっと痩せて精悍な顔つきになってはいたものの、紛れも無く達也だった。

 「達也君でしょ? 菜々子です。御影の祖母の家でよく会っていた……」
 「え?」
 彼は、記憶を確かめるように、じっと菜々子の顔を見つめる。
 「菜々子ちゃん?」
 「はい」
 「うわぁ、久しぶりだね、何年振りかな」
 達也は懐かしそうな表情を浮かべた。
 「えっと、四年ぶりかな」
 「そっか、もうそんなになるんだ。菜々子ちゃん、すっかり女子高校生だね、全然わからなかったよ」
 「たっちゃんも」
 お互いに顔を見合わせて笑った。
 「偶然だね、どうしたの? 何か探し物?」
 「ううん、高校の教科書にホビットの原書の英文が載ってて、たっちゃんのことを思い出したの。おばあちゃんに聞いたら、東京にいるって言うから」
 「でもよく、ここでアルバイトしてるってわかったね」
 「下宿先の人に教えてもらった」
 「下宿?」
 「うん、隣りの部屋に住んでる学生さん。たっちゃん、今はどこに住んでるの?」
 「ああ、もうちょっと便利なとこに変わったんだ。そっか、訪ねてくれたのか、ありがとう」
 「だって東京にいるなら会いたいなって思って。連絡してくれたら良かったのに」
 「え、ああ、まあね。ちょっといろいろあったから」
 達也の表情がこころなしか一瞬曇ったように見えた。
 「そうだ、菜々子ちゃん、僕、あと三十分で休憩なんだ。急がないならお茶でもしようよ」
 達也はそう言って菜々子に休憩まで待ってくれるように言った。

 三十分の間が菜々子は待ち遠しくて仕方なかった。
 四年ぶりに出会った彼は以前よりもずっと大人びた印象だった。
 「待たせちゃってごめん」
 美術本のコーナーで立ち読みをしながら待っていた菜々子が振り向くと、昔と同じ笑顔があった。
 二人で、書店の向かいにある喫茶店に入った。
 「何でも好きなもの、注文しなよ、今日はご馳走するからさ」
 「ホント?」
 「うん、僕、昼を食べ損なったんだ。だからサンドイッチでも食べるね。菜々子ちゃんはどれがいい?」
「私も実は、お腹空いてるの」
 「じゃあ、サンドイッチにする?」
 「うん」
 達也は、店員を呼び、サンドイッチ二つと菜々子にはオレンジジュース、自分用にアイスコーヒーを頼んだ。

 「久しぶりだね。もうあれから四年になるのか、今、高校生だよね?」
 「うん、百合ケ丘学園の一年」
 「横須賀から都内まで通ってるの?」
 「うん」
 それから二人は、空白の四年間を埋めるかのようにいろいろな話をした。 中でもやっぱり熱心に話したのは本のことだった。
 達也は、将来、出版社に勤めて小説家になりたいと言った。
 平野啓一郎のような作家になるのが夢だとも言った。
 「菜々子ちゃんは?」
 「私?私は今、アガサ・クリスティーに嵌ってるの。おばあちゃんに貰った『青列車の謎』っていう本が面白くて、それ以来、ポアロシリーズを読みまくってる」
 「アガサか。アガサは『検察側の証人』っていう短編があるんだけど、あれが一番好きだな」
 「検察側の証人?」
 「うん、何年か前に『情婦』っていう題で映画にもなったんだけど、何度も映画化されてるよ」
 「そうなの」
 「うん、アガサの短篇集に入ってるから一度読んでご覧よ。かなり面白いからさ」

 達也はあの頃と変わらない屈託のない笑顔を見せた。
 それから、二人は定期的に会うようになった。
 菜々子の前にいる達也は、昔よりずっと素敵な青年になっていた。
 外観的にも性格的にも優しく大人の印象だった。そして、明るく優しい中に時折見せる寂しげな表情がさらに菜々子の気持ちを煽った。

 彼が好き。

 会うたびに気持ちが募っていった。
 そんな菜々子の気持ちを彼は知ってか知らずか、菜々子が誘えば必ず応じてくれるのだった。

「菜々子ちゃん、このカフェに来たのは初めて?」
「うん」
 ある日、表参道を少し入ったところの古い洋館の建物の前に連れてこられた。
 白い壁に高い天井、漆黒に近い焦げ茶色の太い柱は、御影の祖母宅にどこか似ている。
 壁を覆う大きなフランス窓も祖母宅の応接間と同じ作りだった。
 「ここ、御影のおうちに似てるよね」
 「菜々子ちゃんもそう思った? 僕もそう思ったんだ。御影のおばあちゃんちにどこか似てるでしょ。
 そうだ、ちょっとあの大きな木の下に座ろうか」
 店の前庭に大きな樫の木が一本立っていた。
 その根元にいくつもテーブルと椅子が置いてある。その一つを選んで二人で向かい合って座った。
 「何にする? ここのタルト、美味しいって評判だよ」
 二人でメニューとにらめっこしながら、菜々子はブルーベリータルトとアイスティー、達也じゃレモンタルトとアイスコーヒーを頼んだ。
 菜々子はタルトを食べている達也の皿を見ながら言った。
 「たっちゃん、変わった食べ方するんだね」
 「え、ああ、これ? ビスケットの部分を最後に食べようと思って」
 目の前に並べられた皿の上のタルトを達也はフォークで真ん中から真っ二つに切り、右端のビスケット部分をカットした。
 そして、タルト部分をひと切れ、口に入れて、ああ、美味しいと言った。
 もうひと切れ食べ終わって、最後にカリカリと音を立てながら、ビスケット部分だけを食べている。
 「バラバラにしたら、美味しいの?」
 「うん、この方がそれぞれの味を楽しめるんだ。君もやってご覧よ」
 菜々子は、自分のタルトからビスケット部分だけを小さく切って、口に入れてみた。確かにカリカリと香ばしく、ビスケットそのものが味わえる。
 
 それ以降、このカフェは二人のお気に入りになった。
 いつも二人で同じ場所に座り、同じものを注文した。
 大きな樫の木を見上げながら、時には、お気に入りの本を持ち寄って、何時間も黙って読書に耽ることもあった。ゆったりした時間の流れだけがある場所だった。
 会う度に彼は、新しい本を紹介してくれた。
 菜々子の好きそうな本を選んでは持ってきてくれる。
 彼は優しく、穏やかだった。
 いつも菜々子の前では明るく振舞っていた、だから菜々子は全く気づかなかったのだ。
 彼が実は学費も払えないほど困窮した生活をしていたことなど…

 高校ニ年になったある夏の日、彼は待ち合わせの場所に現れなかった。
 今まで一度もそんなことはなかった。遅れる時や来れない時は、必ず事前に連絡があった。
 待ち合わせの時刻はとうに過ぎて、達也の携帯に何度電話をかけても繋がらなかった。
 「お客様がかけられた電話は現在電源が入っていないか、電波の届かない場所にあります……」
 機械的な音声が耳に届く。何だか嫌な感じがした。でもその不安がどこから来るものなのかわからなかった。

 その日を境に達也とは全く連絡が取れなくなった。
 菜々子は、達也がアルバイトしていた紀伊国屋へ出かけてみた。
 すると、もうひと月以上も前に紀伊国屋を辞めていることがわかった。
 一体、彼はどこに行ってしまったのだろう。
 訳もわからない不安が菜々子の心に重くのしかかっていた。



 ある日、学校から帰って郵便受けを見ると、菜々子宛に一通の封書が届いていた。
 達也からの手紙だった。
 菜々子は急いで自室に入り、震える手で開封した。
 そこには何枚にも渡ってびっしりと書かれた達也の文字があった。
 

菜々子ちゃんへ

 この手紙を君が受け取る頃、僕はこの世にいないと思います。
 弱い僕を許して下さい。
 実は半年以上前から大学を休学していました。
 菜々子ちゃんと出会った頃は、もう大学には通っていなかったのです。
 僕は高校二年の冬休みに両親と一緒に東京に出てきました。
 父の事業が失敗して借金取りから逃げるようにして出てきたのです。何とか都立高校へ編入し奨学金を貰って大学に入ったけど、父は東京へ来るとまもなく失踪して行方がわからなくなってしまいました。
 一人で僕と借金を抱えることになった母も、去年、病気でなくなった。
 僕はこの広い東京でひとりぼっちになってしまったんだ。
 神戸で育った僕には、この東京に一人も知り合いがいません。孤独で不安で仕方のない生活を送っていました。

 国立といえども大学の授業料や教材費を払うと奨学金はほとんど手元に残らない。それで学生課から斡旋された紀伊国屋でアルバイトを始めたんだ。でも時給の安い書店のアルバイトだけでは食べていくことも出来なかった。寮は門限があり、夜中のバイトをすることが許されていない。
 寮を出て安アパートに移りました。
 昼は紀伊国屋、夜は工事現場で日雇い労働のバイトをしました。
 現場のバイトが終わると夜がしらじらと明けてくる。倒れ込むように布団に入り、昼前に起きて書店に行く。
 毎日がそんな繰り返しだった。
 まともに大学にも通えず前期の単位は半分も取れなかった。
 何とかしようともがけばもがくほど生活は苦しくなるばかり。
 余裕のない生活の中で古本屋で新しい本を買って読むことだけが僕の唯一の楽しみだった。
 そんな頃、君と再会した。
 君は明るかった。
 昔とちっとも変わっていなかった。
 昔の僕を知るのは、この東京で君ただ一人だった。
 君は何の疑いもなく僕とつきあってくれた。  
 君といるときだけが僕を神戸にいた幸せな頃に引き戻してくれる。
 僕は君と会うことだけが楽しみになった。
 君のために本を選び、君の嬉しそうな顔を見るだけで疲れも辛さも何もかも吹き飛んでしまう。
 君といるだけで幸せだった。
 あ、心配しないで。
 君にあげた本は、古本屋街でいつも綺麗な本を格安で手に入れたものだから。
 君は新品だとばかり思っていただろうけど、あれは実は古本だったのです。本を見る目だけは養われていたから、僕はいつも新品同様のものを探し回って君に渡していたんだ。

 僕は何度か大学を休学しながら学費を貯め、必ず大学を卒業しようと思っていた。その目標の為に頑張ろうと思っていた。
 毎月のアルバイト料の中から少しずつお金を積み立てていました。
 休学すると奨学金は貰えない。学校に行って勉強する為に借りるのだから当たりまえです。
 その為に働いたお金の中から学費を積み立て授業料を払い、通学している間は奨学金とアルバイトで何とかしのいで、また休学する。
 そういう方法を取ろうと思った。
 8年しかいられない大学ではこの方法がギリギリだった。
 
 工事現場で知り合った中に金田という人がいました。
 彼も地方からの苦学生だった。
 僕達は同じような境遇にいて、お互いに頑張ろうと励ましあっていた。
 彼も決して裕福ではなかったから、いつもアルバイト先でお金の愚痴をこぼしていました。
 ある時、彼と夜通し焼き鳥屋で飲み食いをして一緒に家に帰りました。
 もう電車がなくて彼が泊めてくれと言うのです。
 僕は彼を自分の布団に寝させて、自分は畳の上で仮眠しました。次の日は書店の棚卸の日で早朝からバイトが入っていたから。
 次の朝、僕は彼に声をかけました。でも彼はぐっすり寝ていて起きないのです。それで僕はそっと家を抜け出してバイト先へと行きました。
 夕方まで一日棚卸をして家に戻ると、彼が起きて部屋を片づけ、掃除をしてくれていました。
 僕が悪いなと言うと、彼は「泊めて貰ったんだからこれぐらい当たり前だよ」と言う。次の日は書店のバイトはお休みで、夜の工事現場のバイトだけが入っていた。
 彼は自動販売機でお酒を買い、コンビニで食料も買ってきて待っていてくれたんだ。二人で飲みながらいろんな話をするうちに、僕はとても眠くなってしまい気がつけば次の日の夕方だった。
 頭が重くガンガンしていた。
 でも工事現場のアルバイトにはいかなくてはならない。一度でも休めば次にいつ仕事を回してくれるかわからないから。
 金田の姿はありませんでした。その代わり、置き手紙があった。
 「世話になってありがとう」と書かれていた。
 僕は工事現場へ行き、翌日は昼まで寝て午後からは書店に行くという日常に戻りました。

 警察から電話があったのは、それから一週間ほどした頃です。
 金田が僕の名義の通帳と印鑑を持っていて、問い詰めると「盗んだ」というので確認の電話をしていると言いました。
 僕は慌てて通帳の入れてある押入れの奧の巾着袋の中身を確かめた。
 すると、そこに入れてあるはずの通帳も印鑑も跡形もなく無くなっていたのです。
 僕は震える声で警官に尋ねました。
 「お金はいくら引き出されてたんですか」
 「全額だよ」

 僕はその後、警官になんと言って電話を切ったか覚えてない。
 通帳には、一週間後に大学に支払うことになっていた半期分の学費が入っていたんだ。

 菜々子ちゃん、人って不思議なものですね。本当に悲しい時は一滴の涙も出ないんだ。母が亡くなったときもそうだった。
 僕は自分が情けなかった。
 金田を信じた僕がいけなかったのです。
 そんな大事なものは肌身離さずいつも持ち歩いておくべきだった。
 どこかに油断があったのかもしれない。
 孤独な生活の中で、君にも会えることのできない忙しさの中で、すっと人を信じてしまった。
 金田はそれを自分の借金の返済に当てたのだそうです。
 彼も苦しい生活の中でサラ金に借金まで作ってどうにもならないところまで追い込まれていたと警察で聞きました。
 君も不運だったね、と警官には言われたけど、僕は不運だったとは思っていません。自分が甘かった。ただそれだけです。
 でもこれで大学は卒業できなくなりました。
 僕の計画は潰れてしまったのです。

 菜々子ちゃん、僕はもう疲れちゃった。
 もっと頑張ろうと思ったけど、もう限界です。
 たった一人でこの東京で死にものぐるいで頑張ったけど、もう疲れた。
 日本という社会は、一度生きていく場所を失ったら、もう二度と元の場所には戻れない。一度失ったものはもう二度と取り戻せない。階段を踏み外したら、もう二度と這い上がることができないのが今の日本の社会です。
 どんなに働いても、どんなに努力しても自分はもう二度と大学に戻る力もなければ方法もない。それが分かった今、僕は生きていく気力を失った。

 最後に君にひと目会って、話がしたかった。

 実は、僕は、こっそり君を見に高校まで出かけたんだ。
 君は友達と楽しそうに門から出てきた。
 君の笑顔を最後に見れて満足です。
 どうか僕のことなど忘れて素敵な人と巡り会って幸せになってください。

 神戸で別れたままの思い出で終わりたかった。
 君にとっては、おばあちゃんちの隣りに住む「本好きなたっちゃん」でいたかった。
 再会したのは僕への神様からのご褒美だったのかもしれない。
 でもこんな別れが用意されてるのなら出会わない方が良かった。

 最後にありがとう。
 君といるときだけは、本当に楽しかったよ。
                                達也


 手紙を読んで、菜々子はどうしていいかわからず神戸の祖母に電話をした。祖母は菜々子の両親に連絡をし、父が達也の搜索願いを警察に出した。  母も菜々子につきそって警察へと出向いた。
 手紙を読んだ警察官は自殺の恐れがあると判断し、すぐに手配をしてくれた。
 手紙の消印は静岡県の富士山局のものだった。
 樹海付近一体で大掛かりな搜索が行われ、菜々子も両親や祖母と一緒に現場へと出向いたが一向に達也の行方はわからなかった。
 樹海の奥深くに入り込めば、遺体を見つけることすら難しいとも言われた。状況的に見て、おそらくどこかで自殺しているのではないかと説明された。

 菜々子の前から達也は忽然と消えてしまったのだ。
 彼が死んでしまったという事実に菜々子は向き合うことが出来なかった。

 彼から渡された多くの本を見るたびに涙が流れた。
 梯子を途中で外されたかのような宙ぶらりんの彼への気持ちだけが残っていた。



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