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おもちゃのカギ。

ケンチキの肉でポテトを挟んだバーガーをどうしても食べたかったので昨日の晩から画策していた。フィレのパサ感をハッシュポテトがギットリ補うので丸く収まっているやべーやつだった。大満足。どうもこんばんは。彗月はづき 漣太郎れんたろうです。バンズって大事なんだなぁ。

実はマックでバイトをしたことがあるのだが、上司が全員ヤンキーとパリピで、毎回死ぬほど怒鳴られているうちにメンタルに異常をきたし辞めたことがある。初めてのバイトは郵便局(年末年始)で二番目がマックだったのだ。その後2年ほどマックを避けていた。なので、ソフトクリームが上手く巻ける。ベストオブヤバい客は「ソフトクリーム(当時100円)の味見させて」と言ってきて丁重にお断りしたら水をかけられた上に、上司に頭を下げさせられた客だ。

セボンスターを集めていた。

いわゆる女児おもちゃ(女児男児という区分けは不要であると思っているが、チープトイや駄玩具というジャンル名はまだそれほど浸透していないようなのでこう表記する。キラキラしたシャランラやガチャガチャドカーンはみんな好きだろ、という気持ちは持っている)が大好きなのだが、自分で買う事はかなり稀であった。

ある傷口があったのだ。それを、生まれ直した日から少しずつ、買い物するたびにセボンスターを1つだけ買う、というのを繰り返し、ついに念願叶い、そして、何となく小さな私が傷付いたことを、きっとあの傷は思ったよりも深くて、もう元には戻らないのだと納得し、代わりのおもちゃをもらった気がしたので、今回はそれを記事にする。

おもちゃのカギだ。私は小学校低学年の頃に、縁日で買ってもらった、宝物のように毎日付けていたおもちゃのカギをなくしてしまって、それから、あのカギ以上に魅力的なキラキラシャランラを見付けられなくて、あまり買わなくなった。

近年、きっと真っ当な人生を歩んでいる、私と同じ世代の人間が、アニメ文化を少しずつ受け入れられたチャンスに、キラキラシャランラを、大人が使えるものとして商品化し発売している。私はちょうどセーラームーンの世代なのだが(理解してアニメを観たことがあまりなかったため、どちらかというとおジャ魔女どれみやポケモンの方が記憶に残っている)鈍器のようなスパイラルハートムーンロッドと、見習いタップが長年家に転がっていたのでそれだけをたまに買っている程度だ。

セボンスターはどちらかというと寸胴なデザインが多く、可愛らしいのだが、その点であまり好みなわけではない。それなのにどうしても、パッケージに載っているおもちゃのカギが欲しくて買い続けていた。といっても10本かそこらなのだが、狩猟民族の勝利の証のようにまとめてぶら下げている。ただしそれらは、敗北の証である。

念願のおもちゃのカギを手に入れた私は、その他のネックレスとは少し離れたところに飾った。手に入れてしまえば何とも味気ない。私のあのカギはもっともっと豪奢で、金属で少し重みがあって、アクリルの宝石のカットももう少し角が出ていて、それでもこのカギより上品な輝きをしていたはずだ。美化された記憶は取り返しがつかないものになっていた。だから、20年以上の時を経て、ようやく諦めがついた。

これは執着であり、もう別にセボンスターは買わなくても良いかな、という気持ちになっている。憑き物が落ちる、というのはこんな気分なのだろうか。これからは多分、他のキラキラしたモノ、特にカギの形をしたものを「あのカギじゃないしなぁ」と思わずに買えるだろう。

宝探し遊び。

おもちゃのカギをなくしたのがどうしてそこまで深い傷口になったのか。なぜなら、ただ落としたわけではないのだ。そのおもちゃのカギは、当時私のことをいじめていた(本人はそう認識していた訳ではないようだが、私は意地悪な彼女のことが心底嫌いだった。クラスの中で孤立しないためだけに、耐え忍んで遊んでいた)、名前を仮に、というか、まあ、Aちゃんとしよう。その子が、『宝探し』と称して、盗んで、そのままなくなってしまったのだ。ただしこの記憶は思い込みでしかない。もしかしたら私が本当に落としてしまったのかもしれないし、記憶だって曖昧だが、私はあの日からずっとそう思っている。

宝探しというのは、なぜかその時一瞬だけ流行った遊びで、誰かの大事なもの(なぜか隠されたのは私のものばかりの記憶しかない)を砂場に埋めて、それを探す、という遊びだ。探していたのも私だけだったかもしれない。

この遊びで私は一度、これもお土産でもらって大事に持ち歩いていた、二つの和紙の起き上がり小法師をなくしていた。その時にはAちゃん以外の子供も何人かいて、笑って見ていたのだが、私が本気で泣き喚きながら、狂ったように土を掘り返していたのを見て全員での本格的な捜索になり、門限を過ぎてしまったので諦めることしか出来なかった。

その起き上がり小法師はその後も時間がある限り砂場を掘り返していたのだが、ある日、一人きりで砂場を掘っている時に、分解され始めている残骸を見つけて、もうないんだな、と埋め直し、今日まで誰にも言わずに終わってしまった。

ただ、Aちゃんは、見つからなかったあの日、その日は諦める、という私の行動を見て魔が刺したのだろう。Aちゃんと二人きりの日に、宝探し遊びを提案してきたのだ。それも、私がほんとうの宝石のように大事に身に付けていた、おもちゃのカギを隠すと言ったのだ。

当然、起き上がり小法師の件があったので私も小一時間拒否したのだ。ただ、Aちゃんはそれを絶対に許さなかった。クラスでハブにするとか、絶交するとか、そういった脅しの末、私は泣く泣くAちゃんにおもちゃのカギを手渡した。そうして、なくなってしまった。

私はそれなりに猜疑心のある子供ではあったため、起き上がり小法師の時点で、誰かが盗んだのだと思っていた。それは真実ではなかったが、残骸が見つかったのは確かおもちゃのカギがなくなった少し後だったので、Aちゃんが盗む前提で、耳を澄ませていた。

砂を掘り返す音もしない、隠すにしても範囲は決めていたし、Aちゃんの手もほとんど汚れていない。起き上がり小法師をなくした公園のだだっ広い砂場と違い、およそ半分くらいの面積だったので、本当に隠していたら2時間もすれば見つかるはずで、何より、埋めてすぐに掘った場所の色くらい変わる。しかしそんな痕跡すらない。

隠し終わった合図で砂場を見渡した私は、探す前に、「本当に隠したの?」と問い詰めたが、「隠したよ」とAちゃんは嘘をついた。何度も何度も聞いたが、いいから探しなよ、と怒ったように言い始めた。渋々砂場全部を掘り返さん勢いで、端から順に探していったが、結局見つからなかったし、探しなよ、と言ったAちゃんが、その日は割と早い段階で、もう諦めなよ、と何度も言った。それで、私は確信を持ったのだ。このウソツキに何を言っても無駄だし、どうせそうなると思っていた、と。

Aちゃんが大嫌い。

そもそも、Aちゃんは性格が悪かったのだ。大体いつも悪口を言ってきて、たまに小突いたり、無視をしたり、交換日記を強制したりしてきた。交換日記などという毎日続けなければいけないものなんて書けるわけがないので、当然私の番で止まってしまい、その罰として、門限を過ぎても家に帰してもらえず、溜まった日数分の日記を寒空の下で書かされたりした。

ちなみに門限を過ぎると親にボコボコにされるので、私はそういうことがない限りは絶対に門限を破らなかったし、Aちゃんにも何度もそれは伝えていたのだが、ダメだった。(その日も多分ボコボコにされたと思う)

二度目の交換日記ではそれに嫌気がさし、とっとと返せるように「わからん わからん ミュウツーつかまえる ポリゴンつかまえる」だけ書いて回したら、赤ペンで「真面目に書いてください」と書かれ、腹が立ってその交換日記の存在そのものを抹消した。手が届かない、タンスの裏に捨てたのだ。しばらく問い詰められていたが、捨てた事は覚えていても、子供の手では届かない場所に捨てたので、なんて事はなかった。燃やしたゴミを再生する事は不可能である。なくしたと嘘をつく事に罪悪感はなかった。そもそも、交換日記をやめたい、とも言っていたのだし、別にいいだろう、とさえ思っていた。

Aちゃんは小中学の間同じ学校だったが、小学校の高学年にもなると遊び場が変わったので、なんとなく離れていった。すれ違うたびに大声でバカにされたり、指をさして笑われたりはしたが、受験時期にさしかかり始める頃、命の危機を感じ血尿を垂れ流しながらの甲斐あって、学年6位だかなんだかを取っていたので「まあこの女は私よりバカだからな」とどうでも良くなっていた。

おもちゃのカギの恨みだけは消えなかったが、それも起き上がり小法師が見つかったので、万が一億が一にでもAちゃんが盗んだわけではないと判明した場合、こちらが不利になることぐらいは理解していた。だから、なくしたその日以降ぱったりと止んだ宝探し遊びに触れる事はなかった。

後年、風の噂で、Aちゃんがデキ婚で高校を中退したと聞いた。それが本当なら、その子供はもう当時の私たちよりずっと年上だな、と今朝方、シャワーを浴びながら考えていた。Aちゃんの子供は自分の母親がいじめっこだったのを知ったらどう思うのだろうか。Aちゃんなんかの子供だから、あるある〜と済ませるのかな、などと性格の悪いことを考えながら風呂を出た。Aちゃんがおもちゃのカギを盗んだ事は私とAちゃんしか知らない。

まあ、私だってこうやって、きっと思い込みでAちゃんを晒し者にしているから大概である。今更返せとは思わないし、とっくに捨てただろうし、覚えてすらいないだろう。あのおもちゃのカギは、私の心の扉を厳重に閉めたまま、永遠に消えてしまったのだ。

何かの拍子に、これまた色々あって縁を切った幼馴染がいるのだが、その子が「Aちゃんが大親友の漣太郎に会いたいって言ってたよ」なんて事を言ってたのを、同時に思い出す。(この子は私がAちゃんを苦手に思っていることを知っていたし、親友というタワゴトを言い放ったAちゃんを鼻で笑っていただろう。そのポジションを勝ち取ったのは幼馴染だったのだ)何が親友だ。私に会いたいのなら、焼肉ぐらいは奢ってもらいたいものだ。

『花をうめる』

という話を、以前、これまた性格の悪い女に話したことがあるのだが(その女はお互いに性格が終わっているモノ同士として仲良くしていたクズ友だし、もう交友もない)その時に「新美南吉の『花をうめる』みたいな文学的なエピソードですね」と言われてから、この話は私の中で少し美しいものになっている。

Aちゃんは『ツル』のような女だったな、と。そして、私も『私』のように、ツルへ幻滅して、おろかだと思える、人を見下すことが出来る女だったのだな、とも思った。潔癖で、たとえば、それでもツルが作った花の世界は美しかった、とでも言えるような人間ではないのだと理解した。

『花をうめる』と、セボンスターで手に入れたおもちゃのカギで、私の一つの気持ちがひとつきちんと壊れて、この話を、初めてこうやってまとめられた。(Twitterでは何度か話していた)Aちゃんには人生で多少痛い目を見て欲しい、という気持ちはあるが、今更何か酷く恨んでいるわけでもない。ばったりどこかで会うことがあってもわざわざこの話はしないと思うし、愛想よく懐かしい話をして終わるだろう。それだけだ。

まあ、この記事を見てAちゃんがコンタクトを取ってきて、記事を消せと言うようなら、焼肉で手を打って有料販売に切り替えぐらいはしてやるつもりである。なにせAちゃんというのは、ほとんどそのままAちゃんのあだ名だからだ。こんなあだ名、どこにでもいるから、本人と、せいぜいそれなりに遊んでいた3,4人しかこの話に心当たりはないだろう。いじめられていた私の、ささやかな憂さ晴らしだ。

次回予告。

苅野くんのアバターをこねくり回して楽しんでいる。まだVAPEを吸っていないのでその話かなぁ。

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