ディズニー・プリンセスの系譜

【1】

2013年に『アナと雪の女王』が公開されたとき、「旧来のシンデレラ的な価値観が遂に否定された」というようなことを言う人たちがいた。今でもそういう認識の人は多いかもしれない。
なるほど、『アナ雪』ではプリンセスにかけられた呪いを解いたのは王子様のキスではなかった。プリンセス自身の真実の愛が呪いを解いた。そもそも、ひと目見て運命の人だと確信したハンス王子は運命の人でも何でもなかったし、本当の運命の人であったクリストフも、クライマックスではヒロインの行動を見守るしかできなかった。『シンデレラ』や『眠れる森の美女』が描いた価値観は、『アナ雪』によって克服されたかのように見える。

しかし、本当に『アナ雪』はディズニー旧来の価値観と全く異なる何かを描いたのだろうか。もしディズニーが『アナ雪』によってシンデレラ的な価値観を否定したのだとするならば、シンデレラやオーロラのような、王子様に助けられるのを待っているだけの受動的なヒロインは、過去のものとして打ち捨てられなければならないはずである。けれども、実際にはシンデレラも白雪姫もオーロラも、依然としてディズニーの人気ヒロインであり続けている。『アナ雪』は素晴らしいが『白雪姫』(1937)や『シンデレラ』(1950)は女性を男性社会に庇護される立場に甘んずる受け身の存在として扱っていて大変にけしからん、というような主張は、たしかに一部の声の大きな人たちから聞かされることもあるとはいえ、大抵のディズニーファンには関係の無い話である(そして、その手の主張をする人間はあらゆるコンテンツから何らかの政治的に正しくない要素を読み取るのが趣味であるというケースも多いので、どういう内容の作品であれ非難の対象となる可能性が完全に排除されるということは考えにくい)。
決定的なのは、『アナ雪』が公開された2年後の2015年に実写版『シンデレラ』が公開されているという事実だ。『アナ雪』がシンデレラ的価値観の否定であるならば、『アナ雪』の後になって『シンデレラ』をリメイクするはずがない。しかも、1950年公開のアニメ版『シンデレラ』が、白雪姫などと比べると少々お行儀の悪い、勝気な女性として描かれていたのに対して、実写版『シンデレラ』のヒロインであるエラは、言葉遣いも立ち居振る舞いも優美で慎ましく、いわば、より通俗的な“シンデレラ”像に近いキャラクターとして描かれているのだ。

ディズニーは明らかに、シンデレラ的価値観を否定しようなどと考えてはいない。シンデレラやオーロラ、そしてアリエルのような過去のプリンセスたちは、たしかに現代人の感覚に沿わない特徴を持っている。しかし、彼女たちが示してきた価値観は『アナ雪(1)』や、今公開されている『アナ雪(2)』において否定されているわけではない。それどころか、アナというヒロインは、歴代のプリンセスたちが追求してきたヒロイン像の集大成なのである。アナは歴代のディズニー・ヒロインが体現してきた価値観の全てを受け継いでいる。シンデレラ的な価値観は、アナというヒロインの強さを土台から支えるものである。このことを理解するためには、これまでのディズニーが女性キャラクターをどのように描いてきたのかを知る必要がある。ディズニーのプリンセスたちはそれぞれに個性的だけれども、彼女たちはみな同じところから出発して、同じ理想の女性像を目指して進歩してきた。それでは、ディズニーが追求してきたプリンセスとはどのようなものであったか。

【2】

ディズニー・プリンセスの歴史を考える中で、最初に現れる重要なターニングポイントは『リトル・マーメイド』(1989)、アリエルの登場である。アリエルは、過去のどんなプリンセスとも似ていない。アリエルの強烈な個性を上回るヒロインを、ディズニーは今もって作り出すことができていないのではないかとさえ思われる。それほどに、アリエルがもたらした衝撃は大きい。

アリエル以前のプリンセス(白雪姫・シンデレラ・オーロラ)は、悪意ある何者かによって、本来享受できたはずの秩序を破壊されている。彼女たちを救う王子様とは、破壊された秩序を取り戻す役割を与えられた者たちである。この点で、アリエル以前のプリンセス達は受動的である。いわゆる白馬の王子様を待っているのが受動的であるというよりも、ヴィランによって秩序を破壊されるという、物語のスタート地点における立ち位置が受動的なのだ。

アリエルは違う。アリエルは海の底の世界で、十分満足すべき生活を保障されている。彼女を取り巻く世界の秩序は、父親であるトリトン王によって護られている。だからアリエルの物語は、破壊された秩序を取り戻す物語ではない。アリエル自身が、既成の秩序に反逆する物語なのだ。アリエルの住む海の世界と、陸の世界は分断されている。分断されていることで平和が維持されてきたのだし、トリトン王はその平和的秩序を引き続き守ろうとする。陸の世界に憧れるアリエルの行動が、その秩序を乱すのである。
最終的には、トリトン王はアリエルとエリック王子の結婚を認め、海の世界と陸の世界の分断は取り除かれる。アリエルの既成の秩序に対する反抗は、より高次の秩序を形成する契機となる。

アリエルの新しさは、(必ずしも不正というわけでもない)既成の秩序に敢えて逆らい、新しい、より望ましい秩序をもたらすという、それまでのヒロインにはなかった能動性、もしくは積極性である。アリエル以降、「古い秩序に抵抗して新しい秩序の構築を目指す」という姿勢は、ディズニー・プリンセスの最も重要な資質となる。この後に出てくるプリンセス達は、それぞれに新しい価値観を提示するのだけれども、そのどれもが、アリエル的な能動性がなければ成立しないものばかりなのである。

『美女と野獣』(1991)のベルも、アリエル的な能動性を備えたヒロインだ。言うまでもなく『美女と野獣』という作品は、外見に惑わされずに相手の真実を見極めることの大切さを説いた物語であり、その点でベルはアリエルよりも理知的であったと言ってよい(アリエルはエリック王子に一目ぼれしたのであって、その人柄を理解したうえで愛するようになったのではない)。けれども、ベルがガストンではなくビーストを選んだ最も重要な動機は、平和ではあっても退屈な田舎の村で、「風変わりな娘」としてよそよそしい扱いを受ける生活を疎んじていたことだ。与えられた秩序を無批判に受け入れることを拒み、自分にとってより良いと判断した秩序を選ぶベルの主体性は、アリエル的な能動性の土台の上に成立している。『アラジン』(1992)のジャスミンも、旧弊な因習に従うことを拒否してアラジンをパートナーに選ぶ。ベルもジャスミンも、アリエルの路線を引き継いで、その価値観を発展させたプリンセスであると言える。

ベルやジャスミンは、90年代の時点における理想のプリンセスの完成形だったのではないかという気がしている。というのも、『アラジン』以降、かなり長い間、ディズニーはこれといって人気のあるプリンセスを生み出していないからだ。『ポカホンタス』(1995)や『ムーラン』(1998)も公開されたが、『アラジン』や『美女と野獣』、あるいは『リトル・マーメイド』や『シンデレラ』ほどの人気を獲得するには至っていない。

21世紀に入って、アリエルが開拓し、ベルとジャスミンが完成させたプリンセス像は更新を迫られることになる。20世紀のプリンセスにとって、物語のゴールは本人の幸せだった。シンデレラや白雪姫のように受動的に幸福を待っていたわけではないにせよ、彼女たちにとって幸福は、基本的に受け取るものであって与えるものではなかった。少なくとも、自分以外の誰かの幸福が、彼女たちの物語のゴールに据えられることはなかった。

『塔の上のラプンツェル』(2010)はこの路線を修正した。物語の終盤、ラプンツェルは、恋人であるライダーによって救い出されるのではなく、ラプンツェルがライダーを救う。ライダーの命を助ける為に、自分の一生を犠牲にしようとさえする(自分を誘拐し、自分の魔法の髪の力を利用し続けてきたゴーテルにずっとついていくと申し出るのだ)。
また、ラプンツェルはベルやジャスミン以上に行動的だ。ベルの物語は父親がうっかり野獣の城に囚われてしまったことから始まる。物語を展開させる主導権は、ベルにはない。ジャスミンに至っては、彼女はそもそも主役でもないので、物語を進行させるのは基本的にアラジンの役割である。ラプンツェルは、幽閉されている(のだと彼女自身最初は知らないのだが)塔から抜け出すために、ライダーを仲間に引き入れる。彼女は巻き込まれる側ではなく、巻き込む側なのだ。
ラプンツェルの路線をより徹底・純化したのが『アナ雪(1)』のアナであるということは説明するまでもないだろう。一言でいえば、21世紀のディズニー・ヒロインは、より行動的に、そして、より利他的になった。

『アナ雪(1)』において、アナはアリエルからベル・ジャスミンを経由して、ラプンツェルに至るまでの、ディズニー・プリンセスの歴史を正しく再現している。
「生まれてはじめて」を歌うアナは、「パート・オブ・ユア・ワールド」のアリエルと同じように、まだ見ぬ新しい世界に憧れている。「すべてを変えよう恋を見つけて」とアナが歌うとき、彼女は既成の秩序に抵抗することを宣言しているのであり、自分の世界を変える可能性を恋やロマンスに見出している。そしてこの直後には、彼女はその願望通り、ハンスとの“運命的な”出会いを果たすのであり、ここまではアリエルの物語と全く同じだ。けれども、アナはアリエルのようにストレートにハッピーエンドを迎えない。ハンスが「運命の人」などではなかったということを知って、最終的にはあまり王子様的な要素を持たないクリストフを選ぶ。ベルやジャスミンが通った道だ。さらに、そのクリストフでさえ、アナにかけられた呪いを「真実の愛のキス」によって解くという栄誉ある役割は与えられず、呪いはアナ自身が身を挺して姉の命を救ったことによる、プリンセス自身の「真実の愛」によって解かれる。これはもちろん、ラプンツェルの示した利他性、あるいは自己犠牲の精神を踏襲したものだけれども、アナの「真実の愛」の対象はもはや男性である必要すらない。

ラプンツェルやアナは、愛の力によって護られるヒロインから、愛する人を護るヒロインになった。ただ、『ラプンツェル』や『アナ雪(1)』における物語のゴールは、それでもやはり、ヒロインたちの個人的な幸福だった。だがここから次のステップに進むのにはそれほどの時間を必要としないだろう。次のステップとはすなわち、『モアナと伝説の海』(2016)である。もしくは、『ズートピア』(2016)をここに付け加えても良い。
モアナや『ズートピア』のジュディは、まずもって恋愛をしない。モアナがパートナーであるマウイに恋愛感情らしきものを示した場面はないし、ジュディの相棒・ニックに至ってはキツネなので恋愛とか結婚の対象ではない。この2人のゴールは、恋愛や結婚というプライベートな幸福ではなく、次期村長(むらおさ)としての、あるいは警察官としての責任を全うすることだ。モアナが村の掟を破って珊瑚礁を越えて外の世界に飛び出すのは、彼女自身の好奇心に突き動かされている部分も大きいとはいえ、一義的には村を救うためである。モアナは子供の頃は海の向こうの世界を見てみたいという気持ちを抑えかねていたが、大人になるにつれて村の伝統を尊重することの重要性も理解するようになる。古くからの決まり事を、単に自分の自由を制限するものとしか考えられていなかったアリエルやジャスミンとは違う。ジュディなどは更に先鋭的で、彼女にとって「世界を良くすること」は彼女自身の自己実現そのものであって、ズートピアの秩序はジュディを束縛するものではなく、ズートピアの秩序を維持することこそがジュディが自らに課した役割なのである(そして、物語はジュディがそれまで正しいと思い込んでいた秩序が修正されるべきものであると認識されることで、より高次な秩序への可能性が示唆されるというかたちで結末を迎える)。
私にはかなり意外なことのように思えるのだが、実はディズニー・プリンセスはあまり世界を救う類の活躍をしない。世界を救うプリンセスが現れるには、思いのほか長い時間を必要としたのである。

ともあれ、『モアナ』や『ズートピア』を観た後に、『アナ雪(1)』を観ると、どうしても物足りない印象を抱かずにはいられない。物語の結末が、アナやエルサのプライベートな幸福に留まっているからだ。特に、エルサは女王である。モアナやジュディ以上に重い社会的責任を負っているはずだ。しかし『アナ雪(1)』を見る限りでは、エルサが女王としての責任をどのように果たしているのかはよくわからない。王女であるアナにも同じことが言える。『アナ雪(1)』において曖昧にされていた姉妹の社会的責任がクローズアップされるのが『アナ雪(2)』なのだ。『アナ雪(2)』では、アナとエルサが、力を合わせてアレンデールとノーサルドラを救う。決定的な役割を果たすのは、今回もアナである。エルサとオラフを失ったアナが、絶望に打ちひしがれながらも、「今できる正しいこと」をやり遂げることで、アレンデールの過去の過ちは清算され、世界には新しい秩序が創り出される。そして、アナは女王として、新しい秩序を護る役割を引き受けることになる。

アリエルのような夢見る少女としてスクリーンに現れたアナは、ベルやジャスミン、ラプンツェルやモアナ、歴代のプリンセス達が通ってきた道を踏破して、プリンセスからクイーンとなった。アナこそは、ディズニーが追求してきたヒロイン像のひとつの完成形である。過去のプリンセスが提示してきた価値観を極めたところに、女王の地位がある。『アナ雪』という作品には、ディズニーの考える正しい大人への道程が余すところなく示されている。

【3】

アナは間違いなく、現在のディズニーが描きうる究極のプリンセスだ。けれども、ディズニーは、パーフェクトなプリンセスを生み出すだけでは満足しなかった。ディズニー史上最も完全なプリンセスは、ディズニー史上最も不完全なプリンセスと共に生まれた。それがエルサというヒロインだ。アナが過去のプリンセスが歩んできた歴史を正しく再現する、正統的なヒロインであるのに対して、エルサはディズニー・プリンセスとしての最初の一歩で躓いている。白雪姫やシンデレラが最初に到達した地点で、エルサは挫折している。

先に私は、アリエルはそれ以前のプリンセスと違って能動的であると書いた。アリエル以降のヒロインは全員、既成の秩序に対して能動的に挑戦するという特質を受け継いでいる。ベルやジャスミンの主体性も、ラプンツェルの利他性も、モアナの社会的責任感も、すべてはアリエルの能動性という土台がなければあり得ない資質である。では、アリエル以前のヒロインとは何だったのか。能動的なアリエルに対して、白雪姫やシンデレラ、そしてオーロラは、単に受動的な、王子様に助けられるのを待っているだけの哀れな存在でしかなかったのか。

そうではない、というのは最初に述べたとおりである。アリエル以降のヒロインがどれほど新しい価値観を提示してみせても、白雪姫やシンデレラが忘れ去られるわけではない。アリエル以降のヒロインが、アリエルの欠点を克服しつつもその最も重要な資質を決して失っていないように、アリエルもまた、過去のプリンセスの遺産を正しく引き継いでいる。

白雪姫やシンデレラが体現する価値、それは世界に対する信頼である。正しい心の持ち主は、苦境にあっても正しく救済されるはずであるという信頼。「たとえ辛いときも信じていれば夢は叶うもの」と歌うシンデレラは、王子様と結ばれて財産とか社会的地位を手に入れることを信じているのではない。固有名詞すら持たない“王子”とは、世界に対する信頼を失わない者を決して見捨てない、正しい世界の表象である。
それは、大人からすればいかにも子供っぽい世界観であるかも知れない。世界が事実として決して公正ではないことは、大人になるまでのどこかの時点で理解すべきことだ。それでも、少なくとも幼少期において、世界に対する信頼を獲得できるか否かは、その子供のその後の発達に極めて重大な影響を及ぼすだろう。「良い子にしていれば良い報いがある」ということを確信することは、少なくともそれを確信できる環境で幼少期を過ごすことは、将来その子が健全な発達を遂げるための極めて有利な条件として機能するだろう。白雪姫やシンデレラのようなプリンセスたちは、その物語を通して世界に対する絶対的な信頼を体現している。

アリエルが既成の秩序に反抗できるのは、反抗したとしても世界が最終的には自分を護ってくれるであろうという信頼があるからだ。アリエルの世界は、父・トリトン王という強大な守護者に守られている。アリエルが父親に反抗できるのは、父親が自分を決して見捨てないという確信(普通の言葉で言えば、要するに甘えなのだが)があるからに他ならない。アリエル以降のプリンセス達がアリエルの築いた土台の上に立っているのと同じように、アリエルもまた、先輩たちの築いた強固な地盤の上に現れたのである。

アナもまた、白雪姫的・シンデレラ的段階を踏んでいる。アナは、アナにとっての世界そのものであるエルサに絶対的な信頼を寄せている。姉が理由も言わずに自分を避けるようになっても、両親の死に際して葬儀にさえ出てこないとしても、恐ろしい魔法を使って国を危機に陥れても、アナのエルサに対する信頼は揺るがない。
アナにとってエルサの魔法は、幼少期の幸せな記憶の根源であり、(ウェンディの父親が子どもの頃に魔法の船を見たことを忘れてしまっているように)子どもの頃に見た魔法のことを忘れてしまったとしても、自分の幸せな時代は姉が与えてくれたものであるということは忘れていない。『アナ雪(1)』で描かれるアナの強さは、すべてエルサへの信頼から生まれたものだ。

ところが、アナにとって世界に対する信頼の基盤であるエルサの魔法は、エルサ自身にとっては、幸福な世界を壊してしまった原因なのである。自分の魔法で妹を傷つけてしまったことで、エルサの世界に対する信頼は決定的に損なわれる。エルサにとって、世界は簡単に壊れてしまうものであり、しかも世界の秩序を壊してしまうのは他ならぬ自分の存在なのだ。

エルサは、シンデレラや白雪姫のように世界を信頼することができない。だから、その次の段階に進むこともできない。エルサがノースマウンテンに引きこもったのは、与えられた秩序に反抗するためではなく、秩序を壊さないためである。世界に対する信頼を失っているエルサには、アリエルのように既成の秩序に反抗することができない。だからエルサは、変化を求める妹を拒絶する。変化を恐れるエルサには、新しい秩序を創り出す力はないのだ。

『アナ雪(2)』のアナは、もはやかつてのように積極的に変化を求めたりはしていない。「生まれてはじめて」を歌うアナは、何かが変わることを期待して浮かれていたけれども、「ずっとかわらないもの」を歌うアナは、積極的な変化を望んではいない。かといって、時と共に何かが変わっていくことを恐れてもいない。一方、エルサはまだ恐れている。止めようのない変化が迫っていることを感じながらも、その予感を抑え込もうと躍起になっている。せっかく手に入れた平穏な生活に変化が起これば、また世界の秩序が失われてしまうのではないかと怯えている。そんなエルサが、次の一歩を踏み出すためには、アナの支えがなければならない。

エルサは、『アナ雪(2)』でようやく自分の本来の居場所を見出し、世界に対する信頼を取り戻す(おそらく、今回こそは取り戻したと言ってよいのだろう)。アナとエルサの物語は、白雪姫的・シンデレラ的価値観の克服ではない。それどころか、エルサの自己実現はエルサの世界に対する信頼が恢復されたときに達成されるのであり、白雪姫やシンデレラの価値は否定されるどころか、これまで以上に力強く肯定されている。

ディズニーが、白雪姫やシンデレラ、もしくはアリエルのような女性を、そのままのあり方で無条件に称賛しているとは思わない。シンデレラを現代人の目で見れば、たしかにあまりにも受動的に過ぎるとは言えるし、アリエルは現実に存在すれば単に我儘な反抗期の娘でしかない。そのような欠点は、後続のプリンセスによって克服されている。ディズニーのプリンセス観が時代と共にアップデートされているのは間違いない。けれども、新しいプリンセスの誕生は過去のプリンセスが忘れられることを意味しない。

「ずっとかわらないもの」のラスト、アナが脱げてしまった靴を拾って抱え上げる描写。大人になったアナは、ガラスの靴を他人に拾ってもらう必要がないのだ。だからといって、その靴が捨てられるわけではない。アナはそれを自分の胸に大切に、愛おしげに抱きしめている。

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