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『流氷の川 ヴィクター・ハッセルブラッドによろしく』

(社会派ミステリー+本格推理小説)÷2+ロマンス
クラシックカメラファンでミステリ好きなら、必読の小説!

あらすじ

茨城県の県北に位置する久慈町に、大規模商業施設が建設される計画が立った。
大規模商業施設の建設予定地が、絶滅危惧種のトンボが生息する湧水の沼の近くだったことから、主人公の真希と仲間たち(翔太、永吉、恭顕(やすあき)、麻美)は、商業施設の建設に反対する運動を始める。
その頃、真希は、町を流れる久慈川の流氷(地元では「シガ」と呼ばれており、川をシャーベット状の氷が流れる自然現象)を見物にいった川原で、《ハッセルブラッド》というスウェーデン製のカメラで流氷を撮影しているカメラマンを見かける。カメラマンの名前は山岡隆司。山岡は、真希たちの反対運動を「やっても無駄」と決めつけた。
真希たちと山岡との関係は険悪になる。
同年、恋愛関係にあった麻美と翔太が婚約することになった。だが婚約目前、翔太の遺体が、廃校になった小学校の校舎を利用した美術ギャラリーで発見される。事故なのか、それとも事件なのか?
いっぽう、翔太の死の三日後、山岡は久慈町から姿を消していた――。
いったいギャラリーで何が起きたのか? もし事件だとしたら、犯人は何者なのか?
自然豊かな山里と東京を舞台に繰り広げられる人間ドラマ。意表を突くトリックで魅せる、社会派本格ミステリー。

『流氷の川 ヴィクター・ハッセルブラッドによろしく』冒頭部分です

第一章 出逢い
  1
 宗像真希(むなかたまき)は襖越しに、祖父宗像耕造(こうぞう)に声をかけた。
「お祖父(じい)ちゃん、起きてる?」
 返事がない。祖父の寝室の襖(ふすま)を、そっと開けてみる。もう、祖父の姿はなかった。
 祖父耕造は、農業のかたわら、山女魚(ヤマメ)や虹鱒(にじます)など渓流魚の養殖の仕事をしている。今朝はもう、養魚場に出掛けたようだ。
 渓流魚の養殖の仕事は、冬が一番忙しい。山女魚や虹鱒は、水温が低くなる晩秋から冬にかけて、卵が孵化(ふか)する。水温と稚魚の成育とは、密接な関係があり、水温の管理は気が抜けないのだ。
 台所を覗いてみるが、母早智子の姿はない。まだ休んでいるらしい。母の寝室の襖(ふすま)越しに、真希は声をかけた。
「シガを見にいってくる。朝ごはんは、帰ってきてから食べるから――」
 眠たそうな母の声が返ってきた。
「こんなに早く行くの? まだ五時半よ」
「みんなと待ち合わせてるから、遅刻できないの」
「そう。シガ、見れるといいわね。そうだ――、炊飯器のスイッチ、入れといてくれる? お米はもう砥(と)いであるから」
「OK」

 居間の仏壇の前に座り、真希は線香を上げ、手を合わせた。仏壇には、真希が中一の冬、火災現場で殉職した消防士の父親と、昨年亡くなった祖母の位牌(いはい)がおさめられている。
 毎朝唱える般若(はんにゃ)心経(しんぎょう)のあと、真希は心の中で、こう祈った。
「今年もシガが見られますように――」

 シガ――というのは、一般的には氷を意味する、主に東北地方で使われている方言だという。しかし茨城県の県北、福島県との県境近くに位置するここ久慈町(くじまち)では、町を貫流する清流久慈川で厳寒期に発生する流氷をいう。
 シガがどのように発生するか、真希はよく知らない。発生する瞬間も見たことがない。なんでも、川底や石の周囲で発生したシャーベット状の氷が水面に浮いてきて、それが凍って流れ下るのだという。川面に張った氷が、割れて流れるのではない。
 山岳地方の渓流や、東北あたりの川なら、ごく普通に見られる自然現象だろう。シガを見たことのない人は、訳知り顔でそう言う。しかしシガは、本州に限れば、この久慈川でしか見られないらしい。
 シガには、発生しやすい条件があるという。一つは気候的な条件である。最低気温がマイナス八度以下まで低下する日が何日か続くこと。もう一つは、河川の地勢的な条件。水深が浅い渓流で、瀬と淵が交互にあること。
 この二つの条件を兼ね備えた河川が、本州では唯一、久慈川の中流から上流域だけらしい。そして、真希の住む久慈町は、久慈川の上流域に位置している。
 茨城県の中でも特に寒いこの久慈町でさえ、最低気温がマイナス八度以下まで下がる日が幾日も続くことは、あまりない。地球温暖化のせいなのか、近頃では、ひと冬に一~二度しかシガが流れない年もある。だが、昨日までの四日間、久慈町の最低気温は、マイナス八度から九度が続いていた。今朝は期待が持てた。

 玄関の戸を開けると、途端に外の冷気が肌を刺した。革の手袋をはめ、獣毛の耳当てをし、納屋の軒下に停めてある車に駆け込む。
「エンジンかかるかなぁ┅┅」
 このところの厳しい寒さのせいか、かかりが悪いのだ。案の定、かからない。少し時間を置いてから、またキイを回す。
 機嫌を損ねた子供がぐずるような長めのクランキングのあと、軽の《ジムニー》は、ブルンと小さな車体を震わせて、ようやく目を覚ました。

 久慈町を南北に貫く国道一一八号線を、南に走った。数日前に降った雪が、路面の所々に凍りついている。四駆といえども、アクセルとブレーキは注意深く扱わなければならない。
 久慈川は、国道に絡みつくように流れている。真希はシガが流れているかどうかが気になり、ハンドルを握りながら久慈川に目をやった。だが、まだ暗くて、水面は見えない。
 仲間と待ち合わせている場所は、久慈町の中心部を少し過ぎたあたり、地元の人が広川原(ひろがわら)と呼ぶ川原である。
 久慈川には、川の近くまで車を乗り入れられる広い川原が少ない。だが広川原は、文字通り、川原が百メートルほども続き、駐車スペースが十分ある。周辺の景観も良く、シガを見物する絶好のポイントなのだ。
 十分ほどで、広川原へと続く小道の分岐点まで来た。そこから五十メートルほど進むと、ヘッドライトの光の中に、丸太を組んだ沈下橋が浮かんだ。
 沈下橋より上手に細長く続く川原には、もうシガを観にきた人たちの車が列をなしていた。テントも幾張りか見える。こんな厳寒期でもキャンプをする人がいるのは、昨今のアウトドアブームのせいだろう。
 大小の石が転がる川原を、真希は車の底を擦らぬよう、注意深く車を転がした。
 仲間の一人、柴崎永吉(しばざきえいきち)の《トヨタランドクルーザー》が車列の先に覗いた。大きな車体をリフトアップし、極太で径の大きなタイヤを履いているから、まるで重機のようだ。
 その横に梶取恭顕(かんどりやすあき)のステーションワゴンと、今村翔太(いまむらしょうた)の真っ赤な《アルファロメオ ジュリア》が停まっている。イタリア製のセダンの先に、真希は車を停めた。

 まだ日の出前だというのに、岸辺にはもう、シガを撮影しにきたカメラマンが大勢集まっている。彼らは、少しでもいい撮影ポイントを確保しようと、場所取りに余念がない。
 仲間たち――今村翔太、柴崎永吉、梶取恭顕、秋寺麻美(あきでらあさみ)――は、見物人に混じって向こう岸にいた。
「遅いぞ、真希!」永吉の野太い怒鳴り声が、暗がりの中に響く。
「ごめん。車のエンジンが中々かかんなくって。で、どう? シガは流れてる?」
 もどかしい気持ちで、真希は訊(き)いた。
「もう流れ始めてるよ!」恭顕が弾んだ声で言った。
 やった! 真希は心の中で快哉(かいさい)を叫んだ。

 まだ闇の色が濃い水面を、恭顕が懐中電灯で照らす。
三角形、矩形、楕円、さまざまな形と大きさの氷の塊が、川面を、どんどん流されてゆく。真希の心臓の鼓動が、急に激しくなった。
 二十分もすると、あたりがうっすらと明るくなった。ようやく、シガの全容があらわになる。真希は息を飲んだ――。
 大量のシガだった。川面を覆いつくさんばかりのシガ┅┅。
 この辺りの川幅は二十メートルほど。深瀬が多く、しかも流速が結構速い。それにも関わらず、シガは途切れることなく、まるで湧き出すように流れてくる。
 そのさまからは、自然の神秘を、まざまざと感じることができる。と同時に、シガという現象の希少性――本州ではこの川でしか見ることができないという――を、見る者に納得させるものがあった。
 やがて朝日が、川辺の竹林や、その背後に控える山々の上に昇りはじめた。水面を流れる大量のシガが、生まれたての朝日を受けて、まばゆく輝きだした。
「綺麗――」
 そう呟いた真希は、いつの間にか、寒さを忘れていた。
「俺、こんな凄いシガを見るの、初めてだ┅┅」
 永吉が、柄にもなく、感に堪えないといった表情をした。永吉は、冗談で人を笑わせるのが大好きな、仲間のムードメーカーだ。
「もしかすると、こんなシガは、もう二度と見られないかもしれないな」
 静かな感動を秘めた声で、恭顕が呟いた。
 沈下橋の真ん中あたりに立った翔太と麻美は、うっとりした表情で川面を見つめている。背が一八〇センチ以上ある翔太は、小柄な麻美を胸に抱き寄せた。陽ざしを受けて輝く麻美の色白の顔が、満ち足りたふうに、ほころんだ。
「ね、来年もまたシガを見にこようよ。みんなで」真希は言った。
「来年もシガが流れればな」と永吉。
「大丈夫、きっと流れるさ┅┅」自分に言い聞かせるように、恭顕が言った。「約束よ――」真希の顔を見て、永吉と恭顕は頷いた。

 と、そのとき、バフッ――という音が、辺りに響いた。聞き慣れない音だった。
真希は反射的に音がした方向に目をやった。少し経つと、また同じ音がした。
 真希達の右横で、黒いダウンジャケットを着たカメラマンが、シガを撮影していた。聞き慣れない音は、そのカメラマンが使っているカメラのシャッター音らしい。
 そのカメラは見慣れぬ形をしていた。前後に細長いのだ。
 ほかのカメラマン達が使っている《ニコン》や《キヤノン》などのデジタル一眼レフカメラとは形も違うが、シャッター音もぜんぜん違う。音自体は大きいが、まろやかで耳に心地よく響く音だった。ファインダーは、カメラの背面からではなく、上から覗くようだ。
 カメラマンは、またシャッターを切った。そのあと男は、ファンダーを覗き込んでいた顔を、真希のほうに向けた。
 口と頬を覆う髭、黒縁の眼鏡を掛けたカメラマンは、濃い眉の下の切れ長の涼しげな目で、真希をみつめた。年齢は四十台半ばぐらい。分厚いダウンジャケットで上体は着膨れしているが、すらりとした身体(からだ)だ。
 目が合った真希は、ふと羞恥(しゅうち)を覚え、視線をはずした。

 

『流氷の川 ヴィクター・ハッセルブラッドによろしく』

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