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透明な目の話

テレビでオーストラリアの野生動物について紹介されていた。オーストラリアの自然は日本とは違って広大で素敵に見える。

私は小さい頃から都会に住んでいる。だから当たり前のように都会が好きだし都会は住みやすいとも思う。夜が明るいのは当たり前だしいろんなところに電車で繋がってるのだって人がたくさんいるのだってしょっちゅうテレビに取り上げられてるのだって当たり前の生活。

でも時々都会って冷たいなって思う時がある。 

みんな時間に追われてる。数分単位で動いているし電車に遅れそうになったら走るし都会で時を刻む人の体の中の時計が透けて見えたのなら、その正確に刻まれた秒針まではっきりと見えるとおもう。みんな自分の心の中の時計と、手の中に収まる小さな電子機器によって支配されてるような気がする。

実際私は時間にルーズだが、都会の生活が私の中の時計の針を動かしているとおもう。だから遅刻はできないし常に早歩きだし走ることもしょっちゅうある。タフってよく言われるくらいには、すぐ行動するし(透明なこころのせいなのかな、、)、時間というら袋の中に予定という形の無い塊を詰め放題のようにギュウギュウに詰めている。

で、ふとその足の赴くままに、外国とか海とかギターの音色が聴こえる場所とかそういう普段住んでる都会とは少し違う非日常的な場所に行った時、私の中の時間っていう袋の中にある、予定っていう箱の中が透明になる。目の中が透明になる、とも言えるかもしれない。

目の中が透明になった時、全ての景色が新鮮で輝いて見える。都会の生活から解放された時に私の目は透けるのだ。

最近、そんな透明な目を持った時間の中に存在する景色を透明な色のまま残したいと思いカメラで写真を撮ることがある。

インスタグラムに写真用のアカウントというのを作ってたまに写真を載せるのだが、その際の

#ファインダー越しの私の世界  

っていうハッシュタグがとても好きだ。このハッシュタグに透明感を感じるのかもしれない。

でもカメラを始めて同時にわかったことは、目の中の透明なフィルター越しに見る景色と人工的に作られた透明なフィルター越しの景色は全く違うということである。写真垢を眺めていて、素敵だと感じる透明感があっても、綺麗な写真たちは、大体その全てがレタッチという工程を経て実際見えている色とは全く異なっていることがほとんどだ。そこが素敵とも言えるが、それは透明な目で見た景色ではない。

そんなこともあって、インスタで楽しい思い出の写真を載せることに抵抗がある時がある。写真を載せてしまうと、人工的な透明フィルターでかざした思い出でしかなくなってしまう気がするのだ。かといって、載せないと思い出のアルバムに載せ損ねてしまったという喪失感が生まれる時もある。インスタグラムは、その矛盾を抱きつつも楽しんで使っている。


人工的な透明フィルターと、自分の中の透明フィルターはそこに映る情報量が違う。

自分の中の透明フィルターはその場所で聞こえてくる音、思い出、その土地の文化とかそこでの会話とか、いろんなものが混ざって、混ざり合ってできたものである。そのフィルター越しのものたちは、言葉では表せないような、画用紙の上では見たこともないような色を持っている。

そんな透明フィルターに映した時に、キラリと輝くものを見つけた場所、ひと、もの。そんなものがあるところに将来は住みたいとおもうし、キラキラなものたちを一生をかけてコレクションしていきたいとも思う。

いつ見つかるのかもわからないし、どこにあるのかもわからない。

人工的な透明フィルターに映されたものは、情報と呼ばれるものとしてドバドバと自分の脳に注がれる。情報と呼ばれる人工的なものによって透かされたものたちはたくさんあって、そのものたちは参考にはなるけれどそれが自分の透明フィルターに映った時に輝くかはどうかは、実際に行って聞いて見るっていう工程の中でしか輝きはみえない。自分の持ってる透明フィルターを通してでしか、輝きを原石から掘り出すことはできないのである。

だから私は時間とお金が許す限りその輝く何かを求めて、今日も透明なフィルター越しにいろんなものをかざすのだ。

もっとも、都会の生活の中ではそんな時間がいくらでもあるわけではない。でも都会の中の生活にだってキラって輝く何かを見つける時がある。そんな日の1日はキラキラ輝いていたりする。


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