好きの反対は「無関心」なのか?
マザーテレサが「好きの反対は無関心です」と言ったらしい。
正確には「愛の反対は憎悪ではなく無関心」と言ったらしいが、右往曲折を経て「好きな反対は無関心」という説が広まり、一定の支持を集めている。
いやいや、好きの反対は「嫌い」でしょ。
「無関心」は「関心」の反対だと思う。
これって「好きと嫌いは表裏一体」ってことに通じるんだと思うけど、表裏なんて全く一体じゃ無いよね。
「好き」から最も離れてるのが「嫌い」だろ。
嫌がらせ、いじめをしてくる人を嫌ったら、「好き嫌いは表裏一体!嫌いな時点で関心があるから好きと同じこと!」とか言われてもさ、
「いやいや、本当に嫌いなだけだから。」ってなるでしょう。
蛆虫や寄生虫が嫌いっていうのは、無関心とか関係なく単に嫌いでしょう。
嘘つきや卑怯者を嫌悪するのもシンプルに人として嫌いなだけ。
人参やピーマンが嫌いなのも、不味くて食べられないから嫌いなだけでしょう。
嫌いなだけ、それ以上でも、それ以下でもない。
それを「深層心理では好きだからこそ嫌ってるんだよ?」とか訳のわからないことを言われても「は?」ってなるだけだよ。
俺は相当なことがないと人のことは嫌いになんかならない、余程のことがないと。
だけど、一度でも嫌ったらもうダメ、死ぬまで嫌いだと思う。
もう絶対に許さない、という一線を超えた場合に「こいつは嫌いだ」ってなる。
それは不可逆的な嫌悪感、元には戻らない。
「そこまで嫌いな人に関心はあるの?」って聞かれたら、関心なんて全くない。単純に嫌いなだけ。見たくもなければ、考えたくも無い。頭の中から一瞬でも早く駆逐したい。
つまり、
嫌いの形のひとつとして「無関心」がある。
嫌いのバリエーションとして、憎悪、嫌悪、忌み嫌う、軽蔑、拒絶、無関心、などがあると思う。
「嫌いだから無関心」ってことは成立する。
「好きだから関心がある」も成立する。
だけど「嫌いだから関心がある」は成立しないと思う。
変態やドMなどの人には成立するのかもしれないが、俺は嫌いなものに関心なんか持ちたくない。
嫌いなものに1ミリも関心なんて持ちたくないぞ?
結局、「嫌いと無関心を別物として扱う」から訳がわからなくなるんだな。
「嫌い」のひとつの形なんだよ、「無関心」は。
やっぱり本気で嫌いなものは「見ない、知らない、聞かない、付き合わない。」に限る。
嫌いなものは最終的には「無関心」にしたい。
無関心最高!
そもそも仏教の「執着を無くす」って考えは、嫌いなもの、下らないもの、要らないものには「無関心」になれって教えだよね。
仏陀も「醜いもの、卑しい人を見ずに、美しいものを見て、我々は楽しく暮らそう。」と言っている。
サンキュー 仏陀
ファックユー 嫌いなもの
早く涅槃に行きたい、仏陀に会いたい
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