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「配られたカードで勝負するしかないのさ、それがどういう意味であれ」

『カミヤ・モブリー 〜私の母は誘拐犯〜』(2020)


☆監督
ジェフリー・W・バード

☆出演
ニーシー・ナッシュ
タロンダ・ジョーンズ
レイヴン・シモーネ・フェレル


☆STORY

1998年の夏、流産をしたグロリア・ウィリアムズ(ニーシー・ナッシュ)はサウスカロライナ州の自宅から車を走らせていた。
フロリダ州ジャクソンビルの病院に着いた彼女は看護師を装い、シャナラ・モブリー(タロンダ・ジョーンズ)が産んだばかりの赤ん坊カミヤを連れ出した。
グロリアは誘拐したカミヤの名前をアレクシスと改名し、自分の娘として愛情深く育てた。
18年後、成長したアレクシス(レイヴン・シモーヌ・フェレル)はグロリアに仕事をしたいと懇願するが、社会保障カードや出生証明書がないためグロリアは強く反対する。
不審に思うアレクシスだったが、やがてグロリアは、自分が実の母親ではないこと、アレクシスは自分が誘拐した子供であると告白するのだが……。


☆感想

多少は着色されているものの実際にあった誘拐事件を基に描かれた作品。

誘拐犯は敬虔なクリスチャンであり教養もあるけど、実母は15歳で出産、父親は刑務所といった一般的に言えば無教養は両親。

この映画自体が誘拐犯と娘の愛情にフォーカスがあたった描かれ方がされていて誘拐犯と娘が可愛そうに思えて、実母が悪人面に見えてくる。


実際辛いのは実母であって娘さんのはず。


事実を捻じ曲げたり嘘では無い作品だけど、捉え方次第では反感を買う作品にも思える。


子どもって生まれてきたくて生まれたわけじゃないし、親も選んべないわけだ。


一部、産まれた時から人は親を選び、使命を持って生まれているという団体もあるにはあるらしいが。

最近「親ガチャ」って言葉をよく耳にする。

確かに「子どもは自分で親を選ぶことができず
どういう境遇に生まれるかは運任せ」

であって抽選形式のガチャガチャに例えられるのも無理はない。

例えば、トランプゲームの大富豪とかしてて「手札悪い」とか「強い手札が揃わない」などそれに対して「うわ〜、外れや〜」って思うのはわかる。

それってトランプがAからKまであって強さの優劣を知っていて、なおかつ大富豪のルールを知っているからそう思うだけで。

親の場合、歳を取るにつれ生活水準の違いから起こりうるズレを感じ他者と比較してしまう事が原因なんじゃないかと。

「隣の芝は青く見える」だけに過ぎない。
「ないものねだり」だったり。

そもそも日本に生まれてきた事が運が良かったと思うべき。

紛争が無ければ、欲しいものは買えるし、蛇口をひねれば水が出てくるし、道端で倒れても誰かが助けてくれる。

そこに運を使い果たしてるとも言えるくらい運が良かったのに、ネット上では「親ガチャに外れた」とか騒がれているけど、それを外れだを言うのは違う気がする。

もう、生まれたからには親を選びなおすなんて出来ないわけだから、その"変えられないもの"をどうこうするより、自分の"変えられる事"に力を注ぐ方が有効的かと。

そこで紹介したいのが

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