幸せの肴

数年前のこと。

友人との待ち合わせの為、駅までの道を歩いていた。

6月に入ったばかりでも外はかなり暑く、家を出て5分と経たずにシャツが胸や背中にへばりつくのに苛々する。

早く店に入ってビールが飲みたい。
そんなことを考えつつ、これ以上汗をかかない様に遅くも速くもない微妙な速度で歩いていた。

駅へ続く角を曲がると、十数メートル先の方に老夫婦らしき二人が目に入った。
女性は地べたに座っており、男性はそれを見下ろしている形で。

始めは暑さにやられてへたり込んでいるのかと思った。
さらにそこは道のど真ん中。車など滅多に通らない場所とはいえ危険である。
近づいて行き、「大丈夫ですか?」と声をかけた。

事情を聞けば、どうやら奥さんがふとした拍子につまづいてしまい、尻餅を着いた状態から起き上がれなくなったらしい。
腰が悪く杖を突いているご主人はどうすることも出来ず、途方に暮れていたそうだ。

救急車か何か助けを呼んだ方がいいのかと聞いたがそこまでの事態では無く、ただ自分の力で起き上がる事が出来ないだけで立ち上がりさえすれば大丈夫だと言う。

座ったまま顔だけをこちらに向けたおばあさんが、「太ってるから私こんなことになって、恥ずかしいわぁ」と申し訳なさそうに笑うと、「何を言ってるんや」とおじいさんも一緒に少し笑っていた。

こんな状況の中での和やかなやり取りは、普段からの二人の仲を思わせた。

「じゃあ起こしますね」と対面に移動し、前から両腕をゆっくり引っ張って起こそうと一瞬考えた。が。
この状態で起こせば、相手の腕や腰を痛めてしまう事になるかもしれないと思い留まった。

そこで一度背後に回り込んでしゃがみ、自分の腕を脇の下に通し、後ろから抱えるようにして一緒に起き上がるという方法を取った。
何とか無事に立ち上がらせる事ができ、「大丈夫そうですか?」と確認する。

「本当にありがとうございます、しばらく誰もここを通らなくてどうしようと思っていたんです」と、おばあさんに深々と頭を下げながら礼を言われた。

「良かったです」と言いながら、おじいさんの方に目をやる。

むすっとしたような、それでいて哀しんでいるような何ともつかない表情で、微かに会釈をされただけだった。

あれ、こんな感じの人だったか?と、先程の二人の柔和な雰囲気とのギャップに違和感を感じつつ、その場を後にした。

駅までもう少しの道を歩く。
何となく引っ掛かっていたおじいさんの顔や態度と、自分の取った行動とを照らし合わせて考えていると、あるひとつの思いが浮かんだ。

そうか、焼きもちか。

自分が助けられなかったことに不甲斐なさのようなものも感じていたのかもしれない。

あの表情の疑問が解けた気がした。
だとしたら、どんなに可愛くて素敵なご主人だろう。
全ては想像でも、勝手に嬉しい気分になった。

駅に着き、友達と合流して居酒屋へ向かう。
決して気温が下がったわけではないのに、不思議と暑さはそれ程感じない。

あの二人を、おじいさんの顔を幾度も思い出しながら喉に流し込んだビールの味は、いつもより爽快に感じた。



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