6月

映画を観ていてカーチェイスのシーンが流れると、その度に思うことがある。

主人公が車やバイクで悪者を追いかけたり追いかけられたりする、あのシーン。
避ける通行人をスレスレに走り、路面店の野菜や果物をぶち撒け、建物を破壊しながら進んでゆく。
時にはその車自体、他人から盗んだものだったりもする。

いつも思う。商品や店をひっくり返された店主はもちろん大赤字で、これからの生活に大きなダメージを受けることになるだろう、
破壊された建物に住む人々は帰る家を失ってしまったかもしれない。

つまり彼らは、物語における主人公の"善行"の犠牲となったのだ。

フィクションの、しかも主要人物でもないモブの生活にまで想いを馳せるなんてナンセンスだろう。でも「そんなに真剣に考えなくても」と自問たって、思ってしまったものは仕方がない。
コンマ数秒でも頭をよぎれば、作品を純粋に楽しむことを阻むのに充分なノイズになってしまう。

ただ要旨はそこではない。

僕がとても違和感を感じているのは、それを製作側が"良し"としていることに対してだ。

正義が悪を追いかける時、乗り物は無実の民間人は決して轢かないのに、その人たちの"生活の糧"は簡単に破壊する

この、映画のアクションシーンにおける一連の演出が半ばテンプレート化しているという事実は、物語の中(ひいては作り手の中)の倫理観において前者はアウトであり、後者はセーフであるとしているということに他ならない。

きっと画面を派手に盛り上げるという狙いもあるだろう。
人通りの全くない、だだっ広い道路で繰り広げられるカーチェイスでスリルを表現するのが難しいことだってわかる。にしても。

この点にどうしてもモヤモヤしてしまう。


ここからは実際に自分に起きた出来事。

ある日、中学生時代の同級生からメッセージが届いた。
彼とは当時たまに話すだけで、プライベートで遊んだことはなく、もちろん卒業して以来一度も連絡など取っていないそんな仲だった。

正確には十数人のグループLINEに招待された形であり、内容は

来月、〇〇君が結婚します。
披露宴では皆さんのお祝いメッセージ動画を編集したものをサプライズとして会場で流す予定です。
つきましては、その動画を撮ってこちらまで送って欲しいです。

というようなものだった。(確か実際は絵文字の多用されたハッピー感満開の文面で、それが余計に…)

〇〇は彼以上に関わりのない、文字通り"ただの元同級生"だった。
僕はすぐさまグループメッセージを非表示にし、彼をブロックした。当然〇〇に至っては削除する連絡先すら知らない。
普通ならそれでキレイサッパリ終わりかもしれない。そもそも気にすら掛けない人もいるだろう。
ただ捻くれねじ曲がってしまったヨレヨレの神経の持ち主は、その後も何とも言えない苛立ちが収まらなかった。

仮に動画を送ったとしても、それを見た新郎が「ん?誰?」となるか、あるいは先述した映画におけるモブのように、目にも映らないことは想像に難くない。
式に招待された訳でないのは言うまでもなく、そもそもそのような間柄ではないことも彼が知っていない筈はなかった。

要は僕は「結婚式を盛り上げる」という、彼にとっての「善行」の数合わせの為に利用されたのだ。

新郎を喜ばせたいという、その想い自体は素晴らしく美しいことだと思う。
けれど僕をグループに追加する時も、メッセージを打っている間にも、送信ボタンを押す直前にすら、彼は一瞬たりともそれを受け取るこちら側の気持ちは考えなかった。
そんな、僕からすれば利己心以外の何物でもないお願いが、手放しに褒められるような善い行いだとどうして思うことが出来るだろうか。

良かれと思ってやったことが、回り回って結果予期せぬ誰かを傷付けてしまったという経験は誰にでもあるし、この先も起こり得るだろう。
けれど少し目線を上げれば直ぐそこに見えている人の負担や犠牲を、自分が信じる"善き行い"で覆い想像することを放棄する行為は、悪だと思う。

僕は人を傷付けないカーチェイスが見たい。

「善行」を免罪符にして、そこに気付けない鈍さから目を背けて過ごしていないか、自身にも問いかけ続けていこうと思った。

めっちゃ腹立った。

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