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はじまり

こんにちは。ゆうみです。

noteを登録して始めると言ったものの
さて、何から書いたらいいものか。
書きたいこと、言いたいことは
山のようにあるのですが
どうも私は感情的なところがあり
冷静で、読みやすい文章を書くのが苦手です
まあ、なんとか、やってみます。
かなりの長文になりそうですが(笑)

生まれも育ちも雪国富山です。
富山県はて?どこですか?と聞かれることの多いマイナーな県です(笑)
石川さんと新潟さんに挟まれて
存在感の薄いあの県です。
富山と言うくらいなので、立山があります
海にも面しています。
お魚は新鮮でおいしいです。
米騒動の発祥地であり、越中富山の売薬さんで有名と言えば伝わるかな?

まあ、そんな田舎の1都市で私は生まれました。
昭和の末期、まだ景気がよく、人々ものんびりしていたように覚えています。
携帯もパソコンもありません。
連絡手段は固定電話(黒電話。じーこじーこと回すあれです)か、手紙など。
すっかり街から消え去った公衆電話が
どこにでもありましたね。
10円入れてボタンを押して、おしゃべりしたものです。

さて、私の性格はかなり個性的に出来上がっています。
家庭環境がかなり特殊でして
亭主関白で、自己中心的な
典型的な昭和生まれの父親と
生真面目で忍耐強い母の第1子
3人兄弟の長女として生誕しました。

当時は我が家は自営業をしており
羽振りが良く、恵まれた生活をしていました。
喫茶店、建材業、アルミサッシを入れる仕事などいろんな職種を転々としている感じでした。

この父親が曲者で、今の言葉でいう「毒親」の見本みたいな人でした。
母親(私の祖母)に甘やかされて育ったせいか
とてもわがままでした。
子供も妻も自らの支配下に置きたがる性格
言うことを聞かないともれなく
鉄拳制裁が飛んできます。
私も幼少期、言うことを聞かなかったら
真冬の外に放り出されたり
床のない押し入れに閉じ込められたりして
とても怖かったのを覚えています。
とにかく、父の教育方針はめちゃくちゃで
親の言うことが絶対でしたね。
言うことを聞いていれば何でも欲しいものを与えるが、逆らうと容赦しない。
学歴コンプレックスの塊のような人だった為
とにかく良い学校へ入れ、勉強していい会社へ入れが口癖でした。
弟たちは、勉学が好きでなく遊び呆けては叱り付けられていました。
母は女子校の出身で、良妻賢母を仕込まれたのか、とにかく父の横暴に耐えていました
DVモラハラ束縛なんでもござれのひどい夫に従っていたようです。
古い記憶を辿ったら、下を向いてひたすら台所で暗い表情でお皿を洗っていた姿しか出てきません。
何故こんなに酷い目にあっているのに
耐えていたのか、と、尋ねたら
「あんたたち、子どもがおったから」
との答え。
たまらなくなりましたね。
私たちを育てるために、1人では経済力が無い母は、夫に従うよりなかったのです。
今みたいにDVなんて言葉はなかった。
昭和の女はひたすら耐えていたと思います
今考えると女性蔑視のひどい時代だな、と思います。
離婚も簡単には出来なかったようです。

そんな父親に幸か不幸か、私は溺愛されて育ちました。
男親は娘を可愛がるものですが
私は下手に学校の勉強が出来たため
父親のお気に入りになってしまったのです。
勉強と言っても、完全に文系寄りで
国語や英語が得意で、数学は大嫌いでした
今でも数字を見ると脳が拒否反応を示します。
単純計算もできなくなっていますし(苦笑)

母が本好きで、週一で図書館に連れてってくれて読書が大好きになりました。
初めて読んだのは江戸川乱歩の「少年探偵団シリーズ」だったかと記憶しています。
子供向けの本でしたが
今考えるとエログロな退廃的か雰囲気が漂っていて、教育上どうなのか??と笑ってしまいますが、面白くて夢中になって読んでいました。
明智小五郎が格好よくてね。
探偵小説にもたくさんハマりましたよ。
とにかく、ひとりで静かに読書している暗い子どもでした。

なんだかつらつらと長くなりました
とりあえず、今回はここまで。
割と幸せな子供時代だった頃のお話でした。



30年超えのガチメンヘラです。サポートが生きる力になってます!