プレイしていたのは私か?彼女か?『NEEDY GIRL OVERDOSE』(私とゲーム#4)

※この記事は『NEEDY GIRL OVERDOSE』のネタバレを含みますのでご注意ください。


・はじめに

プレイを決めるまで

このゲームを知ったきっかけは、実況動画であったように思う。新しいはずなのに古き良きインターネットを感じさせる雰囲気や、「病み」や「メンヘラ」といった概念に対する自分の関心から、プレイしてみたいとはずっと思っていた。しかし、ホラーな演出やショッキングな展開の多いゲームはプレイしたことがなく、自分に最後までプレイすることができるのかどうか分からず、なかなか踏ん切りがつかなかった。

前回は『MOTHER』『MOTHER2 ギーグの逆襲』『MOTHER3』について記事を書いたが、そこで次は何か自分がやったことのないジャンルのゲームをプレイしてみたいという気持ちが芽生えた。思いついたのが、このゲームである。もともとプレイしてみたいとはずっと思っていた訳だし、操作もカーソル移動とクリックのみで難しくないし、1つのエンディングに辿り着くまでの時間もそこまでかからなそうだし、プレイすることに決めた。

Nintendo Switch版ではなくSteam版を選んだ理由

プレイするにあたって、私はNintendo Switch版ではなくSteam版を選んだ。手っ取り早くプレイするなら断然Switch版だったのだが、わざわざSteamのアカウントを作って自分のノートパソコンでプレイした。

その理由としてはまず、インターネットが舞台のゲームであるため、Switchにゲームカードを挿入してプレイするのではなく、ダウンロードし、かつパソコンでプレイするべきだと思ったことが挙げられる。また、Switch版では、「おくすり」や「えっちなこと」といった単語が差し替えられているらしく、もともとの表現が適切なのかどうかはさておき、それでは制作者の伝えたいことが十分に伝わらないのではないかと感じ、Steam版を選んだ。

・「このゲームは、ゲームというより1人の女です。」

このゲームは、ゲームというより1人の女です。

「NEEDY GIRL OVERDOSE」の配信がSteamで本日スタート。承認欲求強めの女の子を人気配信者になるよう育てる育成・生活アドベンチャー (4gamer.net)

キャラクターデザインとメインビジュアルを担当した「お久しぶり」氏は、ゲームをこのように表現した。私もこの表現がしっくりきた。

『NEEDY GIRL OVERDOSE』はゲームであることに間違いはないのだが、プレイする中で「攻略」という言葉があまり似合わないと感じていた。フォロワー100万人を達成すれば、フォロワーがカンストすれば良いという訳ではないし、何より「エンディング」を「回収する」という感覚ではなくて、「1人の女の人生の結末」を「見届ける」という感覚だったからだ。

その「1人の女」、超てんちゃんことあめちゃん。彼女の性格は、プレイヤーの間で賛否両論だと聞く。しかし、私は彼女のことを嫌いになれなかった。と言うか、一度も嫌いだとは思わなかった。

好きな人にワガママを言って甘えたい、多くの人からチヤホヤされたいという欲求は、誰にでも少なからずあるのではないだろうか。しかし、普通はそのような承認欲求を隠し、表に出さないで生きていくであろう。彼女がインターネットの世界で欲望のままに生きる大人たちを「自然」であると感じ憧れたように、私もその世界で自らの承認欲求に素直に生きる彼女の方がよっぽど「自然」で魅力的に思えてしまった。

それに、私はあめちゃんが実は強い女であることに気付いていた。彼女は配信でアンチに対してしっかり言い返すし、「ストレス」や「やみ度」が上限に達してもなかなかゲームオーバーにならない。その答え合わせとして、全エンディングを見た後に出現するData0をプレイすると、彼女は別に1人でもフォロワー100万人を軽々と達成することができてしまうと分かる。これが「ちょっぴり心の弱い女の子」にできることだろうか。

全エンディングを見て全実績を解除した後、自分に素直で実は強いあめちゃん、すなわち超てんちゃんに少し憧れている自分に気が付いた。超てんちゃんはゲームの世界を飛び出し、XでポストしたりYouTubeで配信を行ったりもしている。それらを覗きに行って、楽しんでいる自分がいたのだ。

二次元という形ではあるが、彼女は確かに存在するのである。しかし、二次元であるからこそ、彼女は同時に人々の幻覚でもある。彼女は人々が寂しいときその心に都合良く現れ、人々は彼女に自分の理想を重ね合わせ孤独を癒す。彼女は紛れもなく、「インターネットエンジェル」であった。

・「まるで天使のように微笑む強めの幻覚」

まるで天使のように微笑む強めの幻覚

Aiobahn feat. KOTOKO『INTERNET OVERDOSE』

これは、ゲームの主題歌『INTERNET OVERDOSE』の一節である。先ほども「幻覚」という言葉を使ったが、ゲームを一言で表すならば、やはりこの一節だと思う。

全エンディングを見た後に出現するData0をプレイすると、あめちゃんは別に1人でもフォロワー100万人を軽々と達成することができてしまうと分かるという話をした。それと同時に、彼女の恋人でありプロデューサーであり、私たちプレイヤーであった「ピ」も、彼女が想像で作り出した存在であったことも分かる。

思い返せば、ウェブカメラやJINEを通してしか彼女と交流できないのはおかしな話だったのだが、それ以前に、最初に彼女に「そう!これからあなたは『ピ』!わたしの好きピだから、『ピ』!」と宣言された時点でもうおかしかった。女の子と日常生活を送るゲームならば、最初に操作するキャラの名前を自分で設定したり、名前を自分で設定できなくとも、最初から名前がついていたりするものなのではないだろうか。ここで彼女は、「ピ」は実在する人物なんだと、自分に強く言い聞かせていたように思える。

この事実を知ったとき、私は頭が混乱した。ゲームをプレイしているのは疑う余地もなく私自身だと思っていたが、「ピ」があめちゃんの想像の産物であったならば、「ピ」はあめちゃんとイコールだったということになる。つまり、ゲームをプレイしていたのはあめちゃん自身だったということになる。

しかし、頭が混乱しているこの状況こそが正解なのだと感じた。

「胡蝶の夢」という言葉が出てくるエンディングがある。「胡蝶の夢」は中国の思想家である荘子による説話で、彼はあるとき自分が蝶になった夢を見た。そのときは自分が人間であることを忘れていたが、夢から覚めると自分はもう蝶ではなかった。果たして自分が蝶になった夢を見ていたのか、それとも夢で見た蝶こそが本当の自分であって、蝶が人間になった夢を見ているのか、というものである。

説話を『NEEDY GIRL OVERDOSE』に当てはめてみると、果たして自分があめちゃんをプレイしていたのか、それともあめちゃんが自分をプレイしていたのか、ということになると思う。説話は結局どちらなのかはっきりさせることを目的としたものではなく、「自分とそれ以外の間に区別はない」ということを伝えるためのものだった。私も彼女も、「まるで天使のように微笑む強めの幻覚」を見ていたのである。

・おわりに

表現は不適切か

このゲームは、精神疾患とその対処法を極めて軽く扱っていることは事実である。実際はただ寝たり「えっちなこと」をしたりしただけで「やみ度」が下がる訳ではないだろうし、クリック1つでできるほどODやリストカットは痛みを伴わない簡単なものではないだろう。精神疾患に苦しむ方への差別や偏見を助長するとともに、興味本位でODやリストカットをする人が出てくるという批判は妥当であると思う。

しかし、現代のインターネットはこのゲームのように、本当はそうではないのにファッション感覚で精神疾患を名乗り、軽い気持ちでODやリストカットをし、それが「かわいい」と思っている人たちで溢れていることもまた事実である。現代のインターネットを包み隠さずに表現し、制作者にそのような意図があったのかは分からないものの、いわゆる「ファッションメンヘラ」を皮肉る形となったという点では、評価できるのではないだろうか。

ところどころで出てくるネタ

このゲームでは、各所に分かる人には分かるネタが散りばめられている。主に1998年代のものから取っているらしく、ギリギリ大学生の私には分からないものも多かったのだが、『トワイライトシンドローム』や『RAINBOW GIRL』あたりのネタが出てきたときには少し感動してしまった。

「そのネタもお前の世代じゃなくね?」というツッコミはなしで。正直に言うと、ゲームカタログ@Wikiの記事を読み漁っていた時期があるので、『serial experiments lain』や『さよならを教えて 〜comment te dire adieu〜』についてもどんなゲームなのかは知っていた。引かないでほしい。

ADVというジャンルはプレイしたことがなかったのだが、自分の選択肢次第で展開がどんどん変わっていくのが非常に面白かった。これからはRPGだけでなく、ADVも含め様々なジャンルをプレイしていきたいと思う。


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