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安倍首相辞任の日に考えたこと

昨日は参議院会館で、「森友ごみ問題を考える会」のシンポジウムの受付を手伝っていました。この日、夕方から安倍首相の記者会見があることは知っていましたが、会が始まった時点では、それは「続投の意思表明」であると言われていました。

それが15時過ぎの速報で「辞任の意向」となり、図らずも歴史的な瞬間をお膝元である永田町で過ごすことになりました。そんな日に思ったことを綴ってみます。

押し付けがましい政治にはNO!

私は、政治的に何か特別な思想に傾倒しているというわけではなく、自分では他の多くの日本人と同様に「ノンポリ」だと思っています。

しかし、思春期を過ぎて、何となく自分の人生に「生きづらさ」を感じるようになり、それが自分の個人的な問題だけでなく、日本という国が抱えている閉塞的な傾向のある社会も原因だということを知るようになると、政権を担っている自民党や彼らが行う政治に対しても懐疑的かつ批判的な目を向けるようになりました。

とはいえ、大人になるにつれて、日本という国のありがたさ、祖国の尊さみたいな感覚にも共感できるようになりましたが、「愛国心」を押し付けられるような政治、それを下支えするような言論や思想には断固として批判的な態度をとり続けています。

もしかしたら「政治家」というものはすべからくそういう存在で、権力者が国民を管理、統率して、国家を運営し、他国との競争に勝つことが「政治」なのだという反論もあるかもしれません。

しかし、そういう考えには死んでも「NO」と言うことが、せめてこの時代に生を受けた私という人間の使命なのではないかな、と案外真面目に考えています。

安倍晋三さんは、私の大嫌いな「上から押し付ける」政治を行おうとするタイプの政治家であり、内閣総理大臣でした。それがあまりにも露骨過ぎて、そしてコロナ禍というタイミングもあって、うまくいかなかった結果が今回の退陣(第一次安倍内閣の時も)だと理解しています。

なぜ、今でも森友問題、なのか?

私は、2018年に「森友ごみ問題を考える会」顧問の環境ジャーナリスト青木泰さんの著書『森友 ゴミは無いのに、なぜ8億円の値引き』の編集に携わり、この事件の概要をひと通り整理して頭に入れました。

この事件のことを本質的かつ端的に言えば、擬装写真まで使用した根拠のない国有地の8億円の値引きの裏に、安倍首相による国家の私物化が見え隠れしている、という話なのです。

ものすごくシンプルに書きましたが「国家の私物化」ってものすごい重罪です。日本は民主主義国なので、天皇であっても「国を自分のもの」にしてはいけません。それは自明のことなので、証拠は隠滅されたわけです。

現在のところ、それが成功しているので、安倍首相は逮捕されていません。そして国民がこの件を忘れることを望んでいて、今のままだったら、おそらく彼の願いは叶うでしょう。

「何で今さら、森友なんてやってるの?」という声が大半だからです。政権のメディアコントロールも功を奏して「野党は自分たちの存在感を示すために躍起になって火のないところに煙を起こしている」「必要な法案を通させないようにするために国会運営を妨害している」と言う識者もいれば、「自分の貯金や家が奪われたわけではないから関係ない」と言う街角の声も聞かれます。

何でこういうことになっているのかというと、森友事件って本質がシンプルな割に、そこに関わっている省庁や役所、企業やその担当部署と担当者。また、運用された法規や制度、専門用語が入り込みすぎて、全体像を把握するのにものすごいエネルギーを要するからです。

国会で野党がこの件を追求しようとしたら、膨大な前提説明が必要になる一方で、証拠隠滅している側はいくらでも言い逃れができてしまいます。注意深く聞いていれば言い逃れには無理なロジックが散見されるのですが、聞き流しているだけだと、野党議員が因縁つけているような印象も受けます。

「私は真実が知りたい」赤木雅子著(文藝春秋)レビュー

赤木雅子さんによる手記『私は真実が知りたい』を、昨日のシンポジウムのパネラーであり、一貫して森友問題を追ってきたジャーナリストの相澤冬樹さん(同書の共著者)より買いました。

結婚して22年間ずっと幸せだった人生がある日から一変し、最悪の結末を迎えるという赤木さんの体験は、涙なしには読めません。

本を読み進めていくうちに、明らかになるのは財務省をはじめとする官僚機構内部における役割の細分化です。そのため、誰もが自分の仕事に対する責任が限定的となり、その結果に対する意識が希薄なまま、業務として巨悪への加担が遂行されてしまったという構図が浮かび上がってきます。

これはマンハッタン計画も同じで、優秀な人材の誰もが未曾有の大量殺戮兵器を作っていると思わずに関わり続けた結果、原子爆弾が完成したというプロセスと似ているかもしれません。

原爆は広島と長崎で推計21万人とも言われる死者を出しました。森友事件の方は、国有地の違法な値引きに関する証拠隠滅のための文書改竄を命じられた現場の職員が自死を遂げてしまいます。「最後は下部がしっぽを切られる。なんて世の中だ」という遺書を残して。

その職員、赤木俊夫さんの未亡人が本書の著者です。

私から見た安倍晋三さん

個人的には、安倍晋三さんという人は、悪人ではないけれど、とても弱くて幼い人だと思っています。

彼は、政治をファミリービジネスにする家庭に生まれたため、自然の成り行きで世襲議員として父親の地盤を受け継ぎました。

母方祖父の悲願であったという日本国憲法の改定以外に国家や政治に対する明確なビジョンや思想もないまま、周囲の人に教えられた通りに振舞っているうちに、政権のトップにまで上り詰めてしまったというのが本当のところではないでしょうか。

自分の地位に執着はあっても、好きな仕事をしているわけではないので、どうしても楽で効率的なやり方を選ぶ傾向があります。

そうすると自分のやろうとしてることに反対する意見を聞いたり、問題の解決策を探るよりも、反対勢力をいかに排除するか、力を削ぐかということに注力すると思うし、その方法を教える人もいるはずです。

また自分の味方や賛成者を増やすために、高待遇を用意しました。さらに無条件に自分を支持させるような教育的の仕組みも作ろうとしています。

安倍政権がやった政治のすべてが悪だとは言いませんが、国会の場における数々の強行採決や森友をはじめとする疑獄事件に触れるたび、日本という社会やその形がどんどん自分の生きづらい方向に向かっているのを感じて、絶望的な気分になりました。

「変えたい」「変わりたい」と思わなければ続く

しかも、そんな安倍首相を多くの人が支持している。その大きな理由に「他に人材がいないから」というのがよく聞かれました。それは「誰がやっても同じ結果にしかならない」という意味だったと思います。

国家の政権担当者の仕事が「誰がやっても同じ」っていうのは、これこそ日本の政治そのものが官僚機構そのものに飲み込まれてしまっているからではないでしょうか。

確かに、民主党政権は官僚機構とうまく付き合えなかったために潰されたというし、日米地位協定のようなものがある限り、日本の政治は「ジャパンハンドラーズ」と呼ばれる外国人たちの意向を無視できない、という現実があります。

そして「誰がやっても同じ」という仕事は、日本社会のそこここに見られるもので、それこそが「安心・安全・安定」のジャパンクオリティを生み出していることにもつながります。

首相である安倍さんさえもベルトコンベアーの前であるいはコンビニエンスストアのカウンターで、「誰がやっても同じ」な仕事をしているというイメージでしょうか。

それが安心感を生んで高い支持率につながっているのなら、いくら閉塞感があっても「生きづらい」と言っても、年間2万人自殺者がいても、自民党(+公明党)政権は続くでしょう。

日本国民の意識が「誰がやっても同じ」ということに対して「変えたい」と思わない限り。

もちろん、私は変えたいのですが、この状況で私ができることは、ベルトコンベアー化する社会について、ひたすら「これでいいの?」「変えたくないの?」と言い続けることだけです。

そして「誰がやっても同じ」結果を生むという場所から離れて生きるだけです。「こっちの方が楽しいよ!」と呼びかけながら。

安倍さんはもしかしたら、「誰がやっても同じなら、仕事をやりやすくすることが自分の仕事だ」と思っていたかもしれません。そのための仕組みを作ろうとしていて、それが国民のためにもなると本気で信じていたかもしれません。

その志半ばでの辞任ということになりますが、このロジックが通るなら、ここで言う「国民」とは、支持者のみを指します。反対者は為政者の仕事を邪魔したという理由で裁かれることになるでしょう。

こんなブログ書いている私も、当然処罰の対象となります。そんな日が来ないことを、願っています。

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