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Drawing Sea 4 (再創造/四)

 和田紫尽には時折思い出すことがあった。彼が七歳のある日、自宅のキッチンには白い器に盛られたちらし寿司があった。真夏の外気を感じさせない白く冷たい家で、彼にはそのちらし寿司だけが色づいて見えた。
 生活感のまるで無い家だった。彼はキッチンから居間の吹き抜けを見上げたが、天井で回るファンは決められた動きを繰り返すのみ。彼は窓際で受話器を手にした母を気にかけながら、白い器を持ち上げた。
 一分に満たない時間の後、彼は母の怒声を浴びていた。乳白色の水面のような床には、白い破片ともう食べることのできないちらし寿司があった。母はしきりに、器が、器がと繰り返していた。どうして勝手なことをするの、器が割れたじゃない、おとなしくしていてよ、器が割れたじゃない。
 彼は悲しかった。しかし、当時の彼には何がこうも悲しいのか、理解できていなかった。彼はただ、怒声よりも、割れた器よりも、母よりも——その中身、紙吹雪のごとく色とりどりに広がったちらし寿司を見つめて、悲しいと感じていたのだった。

「できた」
 夏の十九時半。水鳥の家では夕食の時間だった。
 山の中腹、木々に囲まれた平坦な草原に水鳥の家はある。平屋の家は一本を半分に切ったカステラの形で、中もそう広くはない。小さな食卓は元々一人用のものだった。
「いやあ、水鳥のご飯は本当においしいよねえ。なんていうか、これが懐かしい味ってやつ……?」
「野菜が美味いんだ。俺は何もしていない」
「何もしてないことはないでしょ」
 水鳥が十三歳の夏に家を知られてから二年間、紫尽は毎日のようにこの場所へ通っていた。知られた、なんて言い方をするのは二人の出会いの日に理由がある。二年前、縹の山の中を歩き回っていた紫尽は偶然に、水鳥の家へ辿り着いたのだった。
 庭先で草を刈っていた背後、濃緑の森から突如現れた紫尽の姿に、数秒固まった事をよく覚えている。
 ふきの煮物を口に詰め込みすぎたらしい紫尽が話を始めようとした。
「へえひほり」
「飲み込んでから話せ」
「うん……うん……うん! ねえ水鳥」
「なんだ」
 紫尽は何やら神妙な面持ちでこちらを見ていた。
「山にはさ、死体があるんだよ」
「そぼろを食べながら何を言い出す」
 肉そぼろは紫尽の持ち込んだ食材だった。
「いやさ、違うんだよ。違わないけど、今朝のニュースでやってたの。今度の死体は山で見つかったって。東のほうだけどね」
 この場所、水鳥の家は縹高校と同じ、街の西側の山中にあった。
 紫尽が続ける。
「俺もテレビ全然見ないからさ、今日たまたま知ったんだけど、例の偶数月に起きてるっていう殺人事件、これで二年になるって。しかも今回初の山。だから水鳥、裏山の散策中に死体を踏むんじゃないかって」
「踏んでどうなる。その前にだ、俺がその土を踏む頃にはとっくに片付いてるだろう。……ああ、そういえば」
「そういえば?」
「爺さんが昔、土地に死体を捨てられたってわけで大金もらったとか言ってたな」
「なにそれ! ていうか水鳥、既に死体踏んでた……?」
「踏んでない」
 裏山に広がる祖父の土地は広い。この土地は貴重な生活の糧であった。
 祖父も、水鳥も、家と庭先の畑だけでは生きていけなかった。
 水鳥が続けた。
「大体あの殺人、毎回違う奴が捕まってるらしいが、本当に本当の犯人なのか怪しい。街のはよく騒がないな」
「『秩序』の信頼は厚いからね」
「そんなものか」
 紫尽は夕食を口に運びながらも、その目は何もない虚空に向けていた。かと思えば、次の瞬きの後には目が合う。東の山のことを考えていたのだろうか。
「まあ水鳥、水鳥の山で死体踏んだら教えてよ」
「踏まないだろうがな。その時は庭にビニールハウスが建つだろう」
「ええ〜、焼肉食べに行こうよ〜」

 その後の食卓は大いに盛り上がった。数々の旨いものを挙げては意見が分かれたが、最後、紫尽の放ったこの意見で二人は和解に至ったのであった。
「畑の機械を色々買ってさ、空き時間をふやせばいいんだよ。で、水鳥はもっと料理に凝る。それが一番美味しい夕食への近道だよ!」

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