Drawing Sea 9 (再創造/五十二)
九月十日。月曜日。
いつも通りの、縹高校。昼の屋上。
と、始める前に供述すべきことがある。昨晩の帰宅路の会話、紫尽は結局、牧野の犯行をあらかじめ知っていたのだ。九月四日の晩、水鳥によって、牧野が対話の際話した内容は隅々まで事細かに伝えられていた。
それ故の、あの答えであった。
しかし、水鳥による前知識が無かったところで、紫尽の答えは同じだったのかもしれない。
舞台に戻って昼の屋上。
「ねえ水鳥」
こちらはいつも通り、紫尽から始めたようだった。
「なんだ」
激動の数日の後でも変わらぬ幕開け。
「俺は、水鳥に憧れてるんだ」
彼もまた、前方、昼の眺望を見たまま語る。
「どうしてまた」
「だって綺麗じゃない」
水鳥は、言葉の真意を掴みかねていた。
「真っ直ぐで、シンプルで、無駄を避けてて――ただ生きるって、簡単なようでいてすんごく難しいでしょう? でも、水鳥はそれが出来る。実践して、それが水鳥に馴染んでる。水鳥の一部になってる。水鳥は」
紫尽は一息に語り尽くす。
「綺麗だよ」
こちらを見た。
「運が良かっただけだ。それも、完璧には程遠い」
「運なんてあってもなくても同じだよ」
紫尽は目を輝かせて、ざわつく山の緑を背負っている。
「俺はね」
彼は答えを待たずに続けた。
「ずっと前から消えようと思ってた。そしたら海が見えて、でもいつか無くなるものだから、そのうちにお終いだって、見えたその日から思ってた。でもさ、海があんまりに綺麗だったから、あんまりに、見ていて幸福だったから、同じものがこの世のどこかにあるんじゃないかって、そんなありもしない希望に縋りついて今日の日まで生きてきてしまったよ。でもね」
明るさの中で言葉を区切る。
「水鳥は、本当に、海だったかもしれない」
真っ直ぐに見る。
水鳥の頭の中で海が鳴った。
「だから、ありがとう」
そう告げて――。
紫尽は走り出した。
真昼の天の下。
山側、屋上の淵へ向けて。
端に、フェンスの低い箇所があった。
揺れながら、走る。
体力差を考えれば、水鳥は紫尽に、簡単に追いつけるはずだった。
しかし。
初夏のいつかに話したように。
彼の思う行仁水鳥は彼を止めない。
彼の名を他人に伝えて、詫びたりもしない。
行仁水鳥は"そういうもの"だった。
しかし、変わってしまったのはずいぶん前の事だったのだ。
とうに手遅れだったのだ。
まだ伝えていない。
「まだだ」
水鳥は呟いていた。
そして足を早めて――。
和田紫尽の腕を捉えた。
「水鳥」
半分落ちかけ、大きく傾いた身体。
「……俺は」
水鳥を仰ぎ見る紫尽の目に、赤茶色が映る。
じっと、見ている。
「俺だって、おまえの海が見たい、と、思ってる」
それは、決意の割に弱々しく、どうしようもなくたどたどしい言葉だった。一字一句、噛みしめすぎて味も失ったような音の群れ。
一度、瞬いた。
「うん、ありがとう。嬉しい。本当に、あの夜と同じ、心の底から嬉しいんだ。本当だよ。でも、そうだね。そうなんだね」
紫尽の顔から、本当に短い時、風が吹き抜けて、それが風というものだと気付くまでの時だけ、平時の、穏やかな笑顔が消える。
「また俺が壊したんだ」
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