見出し画像

Drawing Ocean 2 (再創造/五十八)

「おはよう。紫尽くん」
「おはようございます。水族館さん」
 暦は進んで十月。十月五日の金曜日。
 朝の挨拶をしながらも、二人は夜の屋上に立っていた。開かれざるべき闇に浮かぶ舞台。立ち入らざるべき月に見下ろされた舞台。
 紫尽はグラウンド側のフェンスに寄り掛かって牧野を迎えた。
 扉の前に立つその手に、全長三十五センチ程の鉈。
「あっこれはね。なんとなく持って来ただけだから。ここ二回はこれに頼りっきりでさ、手にひっついちゃった」
 語る牧野はいつものつなぎを首元まで着込み、背にはリュックサックを背負っている。鉈を持って出歩く男は、既に『秩序』に目をつけられているかもしれない。しかし、屋上に明かりはなかった。
「すごい。ほんとに殺人鬼って感じですね。物騒だなあ」
 フェンスを背に、紫尽は牧野を見る。暗闇に目は慣れたらしい。白い髪が幻のように浮かぶ。
「人ごとみたいに言うよね。ていうか、こうして会話するなんての初めてだからさ。こっちとしては調子狂ってしょうがないんだけど」
「そしたら、黙ります?」
「別に構わないよ。せっかく友人だし」
 牧野は屋上を見渡す。僅かな月明かりが視界を助けた。
「ここ、『秩序』無さそうだよね」
 座りながら牧野が言う。
「真っ暗ですしね。でも、学校ですよ」
「まあそうなんだけどさ。こんな山っ端だし。屋上来る人なんてほとんどいないじゃん。ありえるよね」
「だとしたら、ありがたいですね。ゆっくりできるでしょう」
「多少だけどね。今度の『秩序』は勝手がわからないし。さて」
 牧野は立ち上がる。リュックを下ろして中身をばら撒いてはいるものの、鉈まで放り出した本人は手ぶらだった。つなぎのポケットに手を入れて、のんびりと紫尽に歩み寄る。
「設定としては、前話した通り、僕はなんとなく学校へ来た。そしたら偶然君がいた。ってな感じなわけだけど」
「そうですね」
「本当にいいの?」
「はい。やってください」
「迷いがないね」
 深夜の街を見渡す。夜景とは言えないまでも、なんだかロマンチックな風景であった。
 青春、というやつだ。
「というわけで僕も君ももうお終いなわけだし、少し余計なお喋りをしたっていいよね。僕は水鳥くんに君の話を聞いてさ、君の絶望にはちょっと共感したんだよ。ほんのちょっぴり、余計なお世話の同情だけどね」
「俺は水族館さんのこと、そこまで知らないので……」
「なんとなくわかるでしょ。もうお終いだって感じが」
「まあ、そうですね」
 紫尽は街並みを眺めながら微笑む。牧野は横顔を観察していた。
「僕の欲しいものも、君の欲しいものも、この世のどこにも無い。でも僕たちはそれが無きゃ生きていけない。何かの間違いでここまで生きてきてしまったけれど」
「ええ、生きてきてしまいました。間違えて。悪いことばかりじゃなかったけれど」
「へえ」
 牧野は笑顔を作った。
「僕もそう思う。この世の中ってのは、僕が生きていていいことなんて何一つ無かったろうけど」
「あ、それは全くの同感です」
「だよね。だから僕だけは、この街、この世の代表で、君の数少ない良かったを肯定しよう」
「そしたら俺も。水族館さんの悪くないを肯定します」
 二人は向き合った。笑顔で。お互いに、心からの笑みだった。前も後ろも、安らぎも、幸も不幸もないけれど、彼らは笑顔で立つ。この屋上だけが彼らの舞台だった。
「じゃ、さよなら。紫尽くん。僕の良き友人よ」
 間。
 それも無く。
 牧野は、紫尽の肩を掴んで地面に押し付けた。倒した身体が仰向けになると同時に腹部に飛び乗り、両手を肩から首へと移動する。そのまま絞める。紫尽のさよならは声にならなかった。彼の笑顔は苦しみに取って代わる。それを見て、ああ、生きているんだなあ。ああも終わりを実感しながら、命は死に抗うんだなあと、牧野は思う。誰もが同じだった。皆苦しい。皆つらい。そうして、死に向かう。近づいて行く。ほんの僅かな隙間で、最後に生きたこの世を見るために、目が見開く。それを、紫尽は閉じようとしているようだった。反射的に暴れる身体を、牧野は足だけで抑え込む。彼の望むように。なるべく、恐怖を感じていないふりができるように。
 やがて、動かなくなった。牧野は手を離す。いつものことだが、この時間。手をかけてから命が消えるまでの時間を、牧野は計れた試しがない。時計を持っていたって見るのを忘れてしまうだろう。奥底に、数にしたくないという思いがあった。得たくても触れられないから神聖だという、矛盾した考えがあった。
「終わったよ」
 言いながら、牧野は紫尽の瞼にそっと触れた。
「思えば、最初はこんなことする余裕も無かった。二年て長いなあ。ね。最後らしい最後だったよね」
 まだ温かい紫尽の上で、彼は振り返る。最初の友人を。川の向こう側の石になってしまった友人を。
 それから、紫尽の胸に手を当てる。
 最後の口付け。
「やっぱり、死の味なんてしないんだなあ」
 呟いて立ち上がる。頭上にか細い月が見えた。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?