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Aquarium 18 (再創造/五十四)


「なるほど……そっか。そんなことが……。話してくれてありがとう」
 九月十日。月曜日。暮れきった山の中。
 平山は、萩尾を訪ねた青台の帰りがけ、その足で水鳥の元へ向かった。夜の山道は多少恐ろしかったが、車道に並ぶ寒色の光を頼りにどうにか辿りついて現在に至る。街灯の存在は『秩序』監視の範囲内を意味した。
 水鳥の家――のあった焼け跡は、あの火事から一週間が経った今、すっかり片付いていた。庭には何も無く、家は基礎を残すのみ。流石に一度、人の手を借りたと水鳥は言った。広場の左端、車道寄りにある庭側の奥手に、最後の瓦礫と掃除道具。その手前のテントで、二人は焚き火の火を囲んでいた。
 なんだか情緒的な風景である。なんて、平山は呑気に考えていたりした。
 その調子のまま、水鳥にどんな調子かと尋ねて出てきた話が、こんなものだとは。
 水鳥は、昼の屋上での出来事を平山に話したのだった。
「俺は間違えたのかもしれません」
 なんだか聞き覚えのある言葉だ。
「そうとも言えるし、そうでないとも言える」
「俺には、何もできません」
「できることをしたじゃないか」
 水鳥が俯いている。その顔に炎の赤を映して。
 初めて見る表情――いや、"初めて見た表情"だった。
「相手が悪かっただけだ……、いや、ごめん。そうじゃないね」
「間違ってはいないと思います」
「そうかもしれない。でも、悪意があったと思う。ごめん。僕だって彼が嫌いってわけじゃないんだ。ただ、そうだね……。正直に言おう。僕は彼が、和田紫尽くんが怖いんだ」
「怖い、ですか」
 火がパチパチと音を立てる。
「何故かって、僕らが何をしようと彼の中では最初から全てが決まっているんだ。どうしたって取り返しがつかない。そんな場所に彼は立っていて、けれどあまりに取り返しがつかないために、どうしても取り返したくなってしまう。出来ないことなのに。無理なことなのに。そうして取り返そうと始めてしまったら、僕は永遠に救い続けている気で永遠に救えていないまま、彼の前に立ち続けることになる。救っているつもりで。あれこれ言葉をかけて。平山未蓮はたぶん、その状態にあった」
 水鳥は火を見つめている。
「彼はとても悲しく見えるんだ。つらく見える。悲劇に見える――可哀想に見える。そうすると、彼の目を通して海が見える。彼はばらばらになってしまった精巧な器だ。僕らのような人間が見たら誰もが直してやりたいと思うだろう。けれど無理なんだ。あまりに粉々だから。彼自身が誰よりも知っている」
「俺が壊したんだ、と言っていました」
 水鳥が姿勢を変えずに挟んだ。
「また俺が壊したんだ、って」
「彼は変わらないから、周りのものだけが変化していく。紫尽くんもそれが怖いのかもしれない」
 平山は火葬場での会話を思い出していた。
 自分で自分の為の罪を償う。
 変化しない故の罪の意識。
「俺の罪は変わってしまったことでしょうか」
 水鳥が呟いた。夜闇に吐いた息が溶ける。
 平山は隣の水鳥を見る。己より少し小さな下級生。本来はそんな関係だった。それだけでしかない関係であった。
 平山は告げる。
「きみがそう思うならそうなんだろうね。人は大抵変わっていくもので、変わらない方が難しいけど、きみもその難しさを実行できた人間なんだと思う。ただね、きみが変わっていなかったら紫尽くんは今頃この世にいなかったよ。僕も、きっときみ、行仁くんも、彼の死は望んでいなかった」
「変わっていなかったら、俺には死を望む望まざるさえありませんでした」
「ああ……確かに。それならこう言おう。きみが変わったことで、和田紫尽くんは存命し、彼の死を望まなかった僕は嬉しく、きみの変化も悪くないと思っている」
「……悪くない、ですか」
 平山は優しげな笑顔を作る。久しぶりに、人を正当に救う事が出来たような気がした。表情を見たとは言え、水鳥の感情はまだまだ読めないが。
 燃える灯りの中、少し。ほんの少しだけ、彼が微笑んだように見えたのだった。

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