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Drawing Sea 10 (再創造/五十七)


 九月十六日。日曜日。早朝。
 紫尽、水鳥の二人は再び縹駅から列車に乗り、浜辺の駅、橙止を目指していた。
 八月三十一日と同じ。静かな車内。
 二人にしても会話は無い。
 休日の始発列車は五時二十分発であった。
 間。
 がたごとと、列車は盆地内を出口に向かって走る。ふと、東の山の間から柔らかい陽光が差した。
 二人は金の光に照らされた。
 
 きっかり十八分の後、彼らは砂浜を歩いていた。駅前から始まって、北を向いて、縹の街に背を向けて、のんびりと歩いた。それから、なんとなく居心地の良さそうな防波堤へ、並んで腰掛ける。何をするでもなく、海を眺めていた。朝の海は穏やかに、ただ繰り返しの音階を奏でていた。
 窓枠も無い、地上の砂浜で、目の前に見る海。
「水鳥。今日はずっとここにいよう」
 紫尽が提案する。
「ああ」
 水鳥が肯定する。
「水鳥」
「なんだ」
「ごめんね」
「俺の方こそ、悪いことをした」
「悪いのは俺だよ」
「そんなことはない」
「あるって」
「非はこっちにある」
「ないよ」
「ある」
「ない」
「おまえにはない」
「ない……?」
 応えた後、紫尽は可笑しそうに笑い出した。止むまでにしばらくかかりそうな笑い。水鳥はそんな彼を見ている。幾分かの清々しさを感じていた。
 風が心地よい。
「水鳥、俺にはもう海がないんだよ」
 笑い納めて、紫尽は神妙に語る。
「海は消えちゃったよ」
「海はおまえの中にある。そう、俺は思う」
 水鳥は答える。目は合わせない。二人、真っ直ぐに海を見つめている。
 波音。
「紫尽。おまえが語る海はおまえ自身にはもう見えないのかもしれない。だけど、おまえが語ることで俺には海が見える」
「そしたら、水鳥の中にもう海はあるね」
 紫尽は空を見上げる。両手を伸ばして、薄青の空を撫でる。両足が交互に揺れた。
「なんか、それは、悪くないことかもしれないね」
 悪くない。
 水鳥は六日前、平山にもらった言葉を思い出した。
 悪くない、とは、どれだけ良いのだろう。
 どれだけ許されるのだろうか。
「それは驕りじゃないか」
「そうでもないよ。海なんて、案外簡単に手に入るものなのかも」
「そんなことはないだろう」
 言いながら隣を振り返る。
「水鳥」
 途端、視界を奪われた。
 目の前を鳥が横切るように影が差す。光を通す透明の束と、自身を映す硝子の球が間近に映った。闇の中で白と青がきらきら光る。波音が三度鳴った。
 心音まで重なる。
「ありがとう」
 唇に魂を乗せたまま、ほんの少し距離をとって告げられた。
「俺の幸福を覚えててね」
 間。
 波音。
 砂浜に降り立つ音がした。
 顔を上げる。
「水鳥ー!」
 紫尽が海の中で呼んでいる。在りし日を象るように呼んでいる。絶対に間違いなく、またこちらへ来てくれると信じ切った目で。そんな目で呼ぶものだから、水鳥は再び走り出していた。あの日感じたもどかしさはあらゆる悩みと共に朝の空へ放り投げて、軽い身体で波打ち際へ飛び込んだ。これで良いのだろう。今日の日ばかりは。悪くない、そう、紫尽が言うのだから。きっと悪くないのだ。
 きっと、僅かばかり許された幸福なのだ。

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