Aquarium 19 (再創造/五十五)
九月十一日。火曜日。抜けるような晴天。
一人、昼の屋上へと向かう平山。
その肩。弁当箱入れにしては大きすぎるトートバッグ。
がちゃりと、何の派手さも何の感慨も、何の力強さも弱さも無く扉を開ける。
和田紫尽が居た。
「あれ? 錐仏くん?」
彼は一人だ。水鳥は新居に関する用があると前日に聞いていた。
「一人だって聞いて。一緒に食べても良い?」
「もちろん」
平山は隠さなかった。
二人並んで、コンビニおにぎりを食べる。
「今、一人ずつ話を聞いて回ってるんだ。旧『秩序』破壊に巻き込んだのは僕だし。色々と大変なこともあったからね」
「変わらないね」
紫尽が薄く微笑んだ。
「萩尾さんのところへはもう行った?」
「うん。平気そうではあったよ」
「それなら良かった」
二人は食事を終えた。簡素で、ありふれた昼食であった。
紫尽が空の袋をまとめている。
「ごめん。昨日きみが飛び降りようとしたこと、聞いてるんだ。昨日は行仁くんの家へ行って」
平山は早いうちにと、伝えておくことにした。これは彼なりの戦略とも言えたが。
紫尽は表情を変えぬまま少し俯いて、ただ頷いた。
「そっか。うん。水鳥には悪いことしたよね。謝らないとなあ。俺、ひどかったと思うよ」
「行仁くんは行仁くんで謝りたそうだったよ」
それだけ言って、平山はトートバッグに手を入れる。紺色で装飾のないキャンバス生地。中から、ガサガサと音がする。
「今日はね、これを見てほしいんだ」
平山は分厚いプラスチックファイルを開いた。
屋上の中央。二人。
街並みも喧騒も遠い。
ファイルの中身は和田紫尽についての記録だった。表紙の丸く歪むほど詰め込まれたそれは、全てが手書きである。ぱらぱらとめくると、段々と文字の量が増えるのがわかった。写真を囲む黒いインクの色が紙の白を占める濃度は狂気的なまでに増し、やがてぱたりと途絶えた。それからは始まり以上に事務的な記録と写真。
そして最後。
クリーム色の一枚。海の絵が、挟んであった。
「平山未蓮はきみに依存していた」
平山は平静を保って告げる。
「それも一方的にだ」
「海が見える。海が見える。一面の海――」
紫尽はページを頭に戻しつつ文字を読み上げた。
「今日も窓の外には海がある。晴れていて、季節は同じ秋。夕暮れの色は美しい。遠くを船が行ったという。今日は二艘。灰色の船だそうだ。涼しい風が海の匂いを運ぶ。その時だけさざ波が立って、綺麗な模様を描くのだ――」
紫尽はページをめくってゆく。その写真はどれも、『家』の一室から外を写したものだ。もちろん、海は無い。和田紫尽でなく平山未蓮の世界。緑の庭と街の景色。遠い山の影。
「海。海。海。海。――窓の外には海が見えた」
「実はいくらか抜いてきたんだ。本当はもっと量があった」
平山は意味がないと理解しながらも語る。それ故に話ができたとも言えた。結果が良くなるばかりとは、決して思えない内容だったからだ。
一人の患者。一人の子供。そんな存在に対しての異常としか呼べない彼の記録。
平山はただ、事実を伝えることに徹した。
「懐かしいなあ。見たことあったよ、これ」
次に、紫尽は予想外の言葉を吐いていた。
「前に大きな船が通ったのはいつだっけ。前に鳥が鳴いたのはいつだっけ――そんな風に話しながら……。これは日記がわりだった。『家』での俺は、海ばかり眺めていたせいか記憶も曖昧だったから」
「……そっ、か」
手遅れという手遅れが手遅れで。
取り返しの取り返しさえつかない。
中身は想像以上のものだった。
それでも、彼は役割を果たそうとする。
「これ、きみが描いたんだよね」
平山は最後のページに挟まれた海の絵を指差した。父の葬儀の前に見つけたものだ。
本当に綺麗な絵だった。
「そうだよ。昔の絵なんて、恥ずかしいなあ」
紫尽は心から照れたような顔をしていた。空気は和やかだ。平山は、何をしに彼の元へ来たのだろうと、疑問さえ覚える。
「ううん。本当に上手いし……色が綺麗だと思う。こんなに綺麗だから仕舞っておくのはもったいないと思ったんだ。だからさ」
素直な言葉だった。平山が続ける。
「これ、きみに返そうと思うんだ」
「ええ、でも。未蓮さんにあげたものだから」
「平山未蓮はもういないんだ」
言いながらふと思った。棺に入れてやれば良かったのではないかと。
直後思い直した。そんな幸福は与えてやるものかと。
「そうだね。もういないんだよね。それならいっか。置いておいてもらうのもなんだか悪いし、恥ずかしいし」
あっけなく、紫尽は海の絵を手に取った。
作者ならぬ粗雑さで。しかし、作者であるからこその適当さで。着る服を箪笥の引き出しから掴み上げるかのように、片手でさっと持ち上げる。
そして、校舎の端へ歩いて行く。
「紫尽くん! 駄目だよ!」
「大丈夫。もう飛び降りたりはしないから」
真意を掴めず、平山はついて行く。立ち上がるとき、足がもつれた。自分だったら止められないだろう。
情けなくなる。
紫尽は昨日と同じ背の低いフェンスまで歩いて行く。
山の緑。
辿り着いた時。
「俺の描いた絵だから、身代わりになってくれるかな。昨日の代わりにさよなら」
彼はそう言って、海の絵を真っ二つに千切った。それは乱暴な、怒りを込めた作業では決して無い、柔らかで、丁寧な手であった。小さな子供が折り紙の色が綺麗だからと、小さくちぎって散らしてしまうような、そんな手付きで、和田紫尽はかつて描いた海の絵を千切り、紙吹雪のように空高く投げた。色とりどりが建物の外へ飛んで行く。青、水色、橙、紙のクリーム色。全てが彼の海。
「これ、未蓮さんのために描いた絵だったよ。暇つぶしにってもらった絵の具で、どんな海か教えてほしいって頼みで」
祝福を浴びる最期に似た舞台の上で、紫尽は一人呟く。
「さよなら、未蓮さん」
呟く。
「さよなら、海」
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