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Drawing Forest 10 (再創造/六十)

「……なんだ」
 十月六日。終わりの後。
 午前十時の自宅で朝食を食べながら、適当につけたテレビだった。
「水族館、行くって言ってたのにねえ」
 萩尾は食べかけの食パンを冷蔵庫に突っ込むと、部屋の奥、ベランダ窓の手前に敷いたままの布団へ向かった。迷いなく寝転がる。六畳の居間は玄関まで見通せた。
 全身を毛布で包む。
 通学はやめにした。
 ふと見た窓の外。晴れた空と縹の山の緑が美しく見えた。ここは三階だった。
 陽気が暗い知らせを助長した。萩尾はテレビを消し、もう一眠りしようと毛布を被り直す。
 部屋は静寂に満ちていた。

屋上の閉鎖が解かれたのはそれから三日後。十月九日、火曜日の事であった。
「萩尾さん、居てくれて良かった」
 夕刻の舞台に来客があった。何やら大きな袋を抱えた平山である。萩尾は一人、街を眺めながら風を浴びていた。
「ヒラヤマ。第一発見者なんだって? 大変だったねえ」
「わ。その話会う人みんな知ってるんだけど……そんなに広まってるの?」
「みんなこういうのは好きだからねえ」
 言いながらフェンスを背にして座る。
 平山は萩尾の隣に落ち着くと、袋からあれこれと取り出し始めた。微かに甘い香り。
「これ、食べて。みんなして山ほど買ったのに誰も食べないから余りに余ってるんだよ」
 懐かしき五人でカゴに入れた菓子類だった。平山が足元に並べる。
「俺、チョコくらいしか食べれるものないなあ」
「えっちょっと。このポテトチップスとか入れたの萩尾さんでしょう?」
「いやだって、みんな好きじゃん。そういうの」
「自分が食べたいものを入れたらいいのに……」
 仕方なしと、平山は一人袋を開けて食べ始めた。萩尾は半分イチゴ味のチョコレートを口に放り込む。
「甘いなあ。これ」
 言いながら思案した。平山が足を延ばすからには、それなりの用があるはずだ。
「で、なんの用さ。まさかお菓子パーティーやりにここへ来たんじゃあないでしょう」
 萩尾は面倒が嫌いだった。
「……まあ」
 平山が答える。
「で」
「いや、用なんて無いのかも。ただ、『家』を知る同士で話したいなと思っただけで……」
「へえ、意外」
 用が無いという答えさえ、平山の用の内なのだろうが。
 萩尾はおとなしく付き合ってやることにした。
「和田くん、死んじゃったね」
 何気ない調子で切り出す。
「うん。彼にとっては良かったのかもしれないけど……」
「こっちとしてはやっぱり悲しいよねえ」
「悲しい……。そうだね」
「それよか、マッキーにも驚きだけど」
「あ、やっぱり聞いてなかったんだ……」
 平山の呟き。彼はくだいたポテトチップスをのんびりと口に運んでいる。
「知り合いが知り合い殺すってさあ、あんま想像したくないわなあ……」
 言ったうち、口の中でチョコレートが溶けきる。
「やっぱり和田くんてさ、海が見えなくなったから死んじゃったのかなあ」
 萩尾が平山に投げる。目は合わせず適当な場所を眺めていると、セーターについた毛玉が目に入った。
 ベージュの柔らかな粒。
 と、それを撫でる己の右手。
「ほとんどそうだと思う。でも、少しだけ違う」
 平山が述べた。
「それって?」
「うん。海の見える前から死ぬつもりだったらしい」
「へえ。どうしてだろうねえ」
「誰にもわからないんだろうね」
 萩尾は想像した。海とは彼にとって、一筋の光と見えた。病室での会話も記憶の隅にある。
 そこには有樹もいた。
「俺も、有樹が見えなくなったら死んじゃうのかなあ」
 日暮れに言葉を浮かべた。
「ああ、今も……見えてたのか」
「うん。……あの頃は世話になったよねえ」
 萩尾は有樹の死後しばらくも、『家』で生活していた。原則、彼の年齢では退居が常だったが、行き場の無い者に限ってはその外となる。
 あの頃の萩尾にとっては、居心地の良い場所でも無かったが。
「『秩序』壊してから話してないんだよねえ。潮時ってことかなあ」
 萩尾が呟く。
「『秩序』壊さなければ良かった?」
 平山が尋ねる。
「いや。それはない」
「どうして?」
「ヒラヤマもそうでしょ?」
「まあ……」
「なんか、区切りはついたかなあって」
 暮れかけの屋上は風も無く。
「ずっと見てられるもんじゃないしね。あれも。ていうか、ただ俺に都合が良いだけの幻だし……」
「それで幸せなら良いと思うけど」
「いいや、そんなものでもないんだなあ」
 大きく伸びをして座り直す。
 平山がじっと見ていた。
「こういうものが見えてるとねえ、それがこの世で一番完璧なものだって思えてくるんだよ。えらい勘違いなのさ。自分が作ったものがこの世で一番正しいだなんて。でもね、なんの間違いだかそう思えちゃう時があるからたまらない。愚かだなあって、身に染みるよ」
 一息ついて。
「愚かなんだ」
 と、繰り返す。
「幸福が罪なんだ。罪悪感だよ。毎日」
「……そう」
 平山が挟む。何らかを想う顔をしていた。
「それでもずっと見ていたい。なんて、思ってしまうわけだけどさあ」

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