遠野物語と南米の鬼女

令和5年度 佐々木喜善賞 落選作 を公開します。
遠野物語と似通った神話が南米にあり、驚いたことがあります。
そのことをイラストにしました。

作品の主題   遠野物語と南米の神話

遠野物語 ヤマハハの話


ブラジル 鬼女の話


遠野物語より
一一六 昔々ある所にトトとガガとあり。娘を一人持てり。娘をおきて町へ行くとて、誰が来ても戸を明けるなと戒め、鍵を掛けて出でたり。娘は恐ろしければ一人炉にあたりすくみてゐたりしに、真昼間に戸を叩きてここを開けと呼ぶ者あり。開かずば蹴破るぞと嚇すゆゑに、ぜひなく戸を明けたれば入り来たるはヤマハハなり。炉の横座に蹈みはだかりて火にあたり、飯をたきて食はせよといふ。その言葉に従ひ膳を支度してヤマハハに食はせ、その間に家を逃げ出したるに、ヤマハハは飯を食ひ終はりて娘を追ひ来たり。おひおひにその間近く今にも背に手の触るるばかりなりし時、山の蔭にて柴を苅る翁に逢ふ。おれはヤマハハにぼつかけられてあるなり、隠してくれよと頼み、苅りおきたる柴の中に隠れたり。ヤマハハ尋ね来たりて、どこに隠れたかと柴の束をのけんとして、柴を抱へたるまま山より滑り落ちたり。その隙にまたここをのがれてまた萱を苅る翁に逢ふ。おれはヤマハハにぼつかけられてあるなり、隠してくれよと頼み、苅りおきたる萱の中に隠れたり。ヤマハハはまた尋ね来たりて、どこに隠れたかと萱の束をのけんとして、萱を抱へたるまま山より滑り落ちたり。その隙にまたここをのがれ出でて大きなる沼の岸に出でたり。これよりは行くべき方もなければ、沼の岸の大木の梢に昇りゐたり。ヤマハハはどけえ行つたとて逃がすものかとて、沼の水に娘の影の映れるを見てすぐに沼の中に飛び入りたり。この間に再びここを走り出で、一つの笹小屋のあるを見付け、中に入りて見れば若き女ゐたり。これにも同じことを告げて石の唐櫃のありし中へ隠してもらひたるところへ、ヤマハハまた飛び来たり娘のありかを問へども隠して知らずと答へたれば、いんね来ぬはずはない、人くさい香がするものといふ。それは今雀を炙つて食つたゆゑなるべしと言へば、ヤマハハも納得してそんなら少し寝ん、石のからうどの中にしようか、木のからうどの中がよいか、石はつめたし木のからうどの中にと言ひて、木の唐櫃の中に入りて寝たり。家の女はこれに鍵を下し、娘を石のからうどより連れ出し、おれもヤマハハに連れて来られたる者なれば共々にこれを殺して里へ帰らんとて、錐を紅く焼きて木の唐櫃の中に差し通したるに、ヤマハハはかくとも知らず、ただ二十日鼠が来たと言へり。それより湯を煮立てて焼錐の穴より注ぎ込みて、つひにそのヤマハハを殺し二人共に親々の家に帰りたり。昔々の話の終りはいづれもコレデドンドハレといふ語をもちて結ぶなり。
柳田國男「遠野物語」(角川ソフィア文庫版)


レヴィ=ストロース「神話論理 Ⅰ」より
M28 ワラウ 星の起源
   むかしむかし二人の兄弟がいた。兄は偉大な狩人であった。兄は毎日獲物を追って少しずつ遠くに行き、ついにそれまでに見たこともない川に出た。岸辺の木に登り、水を飲みにくる動物を待ち伏せた。とつぜん水の中を女がよたよたと歩いてきて、そのやり方が注意を引いた。両手に水を突っ込むたびに、魚を二匹摑えるのである。そのたびごとに一匹食べ、もう一匹を籠に入れた。それは大きな女で、超自然的ですらあった。頭にヒョウタンをかぶり、ときどきヒョウタンを手に取り、水に投げ、コマのように回した。そしてじっとヒョウタンを見つめ、それからまた歩きはじめるのであった。
   狩人はその夜は木の上で過ごし、翌日村に戻った。出来事を弟に話すと、弟は連れていってくれるように頼んだ。「それほどたくさんの魚を捕らえて食べることのできる女」を見たいという。ーー兄は答える「だめだ。お前はなんでもすぐに笑う。だからお前はきっとあの女を笑う」。だが弟は笑わないと約束し、兄は言うことを聞いた。
   川に着くと、兄は自分の木に登った。その木は岸から少し引っ込んでいた。弟は何事も見逃すまいとして、もっと見晴らしのよい木に登り、水の上に張り出した枝に座った。まもなく女が現れ、同じやり方をはじめた。
   女が弟の下まで来ると、水に映っているその影に気づく。女はそれを捕らえようとしてうまくゆかず、また繰り出す。「彼女があちこちにすばやく手を突っ込み、おかしな仕草と滑稽な身振りを繰り返すと、そのちょうど上にいた少年は、獲物ではなく影を摑もうとする空しい試みを見て笑い、笑いがとまらなくなる」。
   女は見上げて兄弟に気づいた。弟の方に降りてくるようにと言うが、弟は断った。女は笑われたのを怒り、毒のあるアリ(グンタイアリ Eciton sp.)に攻撃させた。アリが激しく刺し嚙みついたので、少年はアリから逃げようとして水に身を投げた。女が少年を捕らえ、食べた。
   それから女は兄を捕まえ、籠に入れ、しっかりふたを閉めた。小屋に戻ると、籠をおろし、二人の娘に籠にさわってはいけないと言った。
   しかし女が背を向けるやいなや、娘たちは急いで籠を開けた。二人は主人公の体つきと漁師の才能をたいそう喜んだ。二人は主人公を好きになり、妹の方がハンモックに主人公を隠す。人食い鬼女が捕まえてきた男を殺して食べる準備をすると、娘たちが自分たちの過ちを白状する。母親はこの思いがけない婿を生かしておくことにするが、婿は母親のために魚を捕ってこなければならない。ところがどれほどたくさん取ってきても、人食い鬼女がことごとくむさぼり食い、二匹しか残さない。主人公は疲れ果て、ついには病気になる。
   そこで主人公の妻になっていた妹が一緒に逃げることにする。ある日主人公は義母に、漁の成果をいつものようにカヌーにおいてあるから、自分でとりにいくように言う(漁師はつきが落ちるのを恐れて、自分では魚を運ばない)。ところが主人公はカヌーの下にサメ(あるいはワニ)を忍ばせていた。人食い鬼女は食われる。
   姉が殺人を見つけ、ナイフを研ぎ、犯人を追う。主人公は、追いつかれそうになったとき、妻を木に登らせ、自分も妻のあとから登る。しかし間に合わず、義姉が主人公の片脚を切り落とす。片脚は死なずに、鳥たち(オシギダチョウ Tinamus sp.)の母親になる。今でも夜空に主人公の妻(プレヤデス星団)が見え、その下に主人公(ヒヤデス星団)、さらにその下に切り落とされた脚(オリオン座の三つ星)が見える(Roth 1,p263-265;ある遠いヴァージョンについては、Verissimo,Coutinho de Oliveira p.51-53 所収、参照)。
クロード・レヴィ=ストロース著 早水洋太郎訳 2006『神話論理 Ⅰ 生のものと火を通したもの』pp.161~162
南米ギアナ地方、ワラウ族の神話


   作品解説

   柳田國男の遠野物語を初めて読んだのは2021年〜2022年だったと思う。当時私は、「定本 柳田國男集」を最初から読んでいこうと計画しており、その中に遠野物語が含まれていた。
   レヴィ=ストロースの「神話論理 Ⅰ」を読んだのは、その少し前だった。構造主義とは何か、知りたくてレヴィ=ストロースの本を読み漁っていた。結局構造主義の理論についてはわからないままだったが、著作に星座のように散りばめられた「神話」が印象深く記憶に残った。その「星座」のような配置が、あるいは「構造」と呼ばれるものなのか、そう思った。
   だから、遠野物語を読んだ時「同じような話がある!」と驚いた。日本の農村で語られていた話と、南米の先住民の神話が類似しているのだ。
   日本と南米は、地理的にも文化的にも距離がある。だから、神話が伝播したはずはない。各々の文化で、独立に、類似する「お話」が生まれたのだ。不思議なことだが、「人間の発想」は生活様式や周囲の自然環境が違っても、似てくることがあるようだ。
   今回描いた二つの作品は、二つの物語の中で最も印象に残った「鬼女が、水面に映った人物の姿を本物と勘違いする」という部分だ。私の画力不足で厳密に再現できなかったことは悔しいが、何とか完成させることができた。

   描いている最中に思ったのは、これはどちらも、「笑い話」の類だったのではないか、ということだ。聞き手は、鬼女が水に映った姿を本物だと勘違いして、おかしな動きをしているところを想像して、ゲラゲラと笑ってしまったことだろう。
   南米先住民の「神話」には「笑い話」が多いように思う。別の神話だが、「老婆が主人公の顔にオナラを吹き付けて病気にさせる」等はその典型ではないだろうか。
   そして、同様に、遠野物語「一一六」の部分も、元々は笑い話だったのではないだろうか。柳田國男は、余計な抑揚を抑えた、格調高い、残酷な話として書いている。しかし、遠野で生活の中で語られていたとき、それはちょっと滑稽な、子供を笑わせるための話だったのではないだろうか。
   子供を笑わせてやらないと場が持たない、というのは、今まで私が子育てをしてきた実感だ。今ならテレビやマンガがあるが、当時はそんなわかりやすい娯楽はなかった。だから、笑い話が必要とされたというのは、想像に難くない。

   これから柳田國男の著作と併行して佐々木喜善の著作も読み進め、その感覚が正しいのか検証していきたい。

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