令和5年度 佐々木喜善賞 落選作 を公開します。
遠野物語と似通った神話が南米にあり、驚いたことがあります。
そのことをイラストにしました。
作品の主題 遠野物語と南米の神話
作品解説
柳田國男の遠野物語を初めて読んだのは2021年〜2022年だったと思う。当時私は、「定本 柳田國男集」を最初から読んでいこうと計画しており、その中に遠野物語が含まれていた。
レヴィ=ストロースの「神話論理 Ⅰ」を読んだのは、その少し前だった。構造主義とは何か、知りたくてレヴィ=ストロースの本を読み漁っていた。結局構造主義の理論についてはわからないままだったが、著作に星座のように散りばめられた「神話」が印象深く記憶に残った。その「星座」のような配置が、あるいは「構造」と呼ばれるものなのか、そう思った。
だから、遠野物語を読んだ時「同じような話がある!」と驚いた。日本の農村で語られていた話と、南米の先住民の神話が類似しているのだ。
日本と南米は、地理的にも文化的にも距離がある。だから、神話が伝播したはずはない。各々の文化で、独立に、類似する「お話」が生まれたのだ。不思議なことだが、「人間の発想」は生活様式や周囲の自然環境が違っても、似てくることがあるようだ。
今回描いた二つの作品は、二つの物語の中で最も印象に残った「鬼女が、水面に映った人物の姿を本物と勘違いする」という部分だ。私の画力不足で厳密に再現できなかったことは悔しいが、何とか完成させることができた。
描いている最中に思ったのは、これはどちらも、「笑い話」の類だったのではないか、ということだ。聞き手は、鬼女が水に映った姿を本物だと勘違いして、おかしな動きをしているところを想像して、ゲラゲラと笑ってしまったことだろう。
南米先住民の「神話」には「笑い話」が多いように思う。別の神話だが、「老婆が主人公の顔にオナラを吹き付けて病気にさせる」等はその典型ではないだろうか。
そして、同様に、遠野物語「一一六」の部分も、元々は笑い話だったのではないだろうか。柳田國男は、余計な抑揚を抑えた、格調高い、残酷な話として書いている。しかし、遠野で生活の中で語られていたとき、それはちょっと滑稽な、子供を笑わせるための話だったのではないだろうか。
子供を笑わせてやらないと場が持たない、というのは、今まで私が子育てをしてきた実感だ。今ならテレビやマンガがあるが、当時はそんなわかりやすい娯楽はなかった。だから、笑い話が必要とされたというのは、想像に難くない。
これから柳田國男の著作と併行して佐々木喜善の著作も読み進め、その感覚が正しいのか検証していきたい。